2016年11月10日木曜日

マークス&スペンサーにはお世話になりました

ロンドンの大手総合小売店であるマークス&スペンサー(M&S) が30の総合店を閉店し、45の店舗を食品オンリー店に転換するなどリストラを行い、衣服から食品へとシフトしていくというガーディアン紙のニュースを読んだ。婦人服の売上げが振るわないのが主な理由らしい。ロンドンに1993年から1度目、2011年から2度目で住んだ時にいつもお世話になった店なので興味深い記事だった。

このお店の品物は「質が良いものを、ほどほどの価格で売る」というイメージがあり、安くはないが安心して買い物ができるのが強み。この店の「長い、普通、短い」の3種の長さとサイズの組み合わせがわたしにぴったりで、既製のビジネススーツを直さずに着ることができたので愛用した。これは日本人にとっては珍しいようだ。色やデザインはロンドンのお店は豊かで、ショッピングも楽しいがたいていの服は細身で長めのものが多い。衣服の買い物は一時帰国の時に日本でするという邦人たちの声を何度か聞いた記憶がある。もちろんオーダーメイドにすればいい話だが、これを老舗でやるとかなり値が張ることになる。

2度目に赴任した時に、M&Sが90年代に比べての2つの点で変化していたことに気がついた。1つはあちこちに「食品オンリー」の店舗が増えていたことだった。これはセンズベリーなどの競合店が「ローカル店」というコンセプトで小さなお店を増やしたことに対抗したのだろう。週末の買い物は郊外の大型店に車で行けば良いが、仕事帰りに食品やワインを買うのは地下鉄駅の近くとかが便利に決まっている。もう一つの変化はM&Sの服売り場に様々なM&S内ブランドができていたことだ。若者向けだと「ブルーハーバー」、ちょっとお洒落で価格も高い「オートグラフ」などは90年代にはなかった。服売り場の多様化は、価格の安い商品での競争が激化したことを反映したものだ。オートグラフは服飾専門店ほどには高くないがちょっとお洒落なブランドで重宝した。

M&Sと言えば、昨年帰国するまで参加していたロンドン勉強会でマークス寿子さんとご一緒する機会があった。この方のご専門は歴史研究だが、英貴族でM&S共同創設者であるマークス氏と結婚されていたことをテーマにした軽妙なエッセイで知られている人だ。その他にも日英文化比較についてのたくさんの著書がある。
https://www.theguardian.com/…/m-and-s-marks-spencer-close-8…

2016年11月8日火曜日

池澤夏樹 「植民地の叛乱」の構図

池澤夏樹氏の小説は「スティル・ライフ」で芥川賞受賞の頃から時折り読ませていただいた。去年くらいから再び興味を持っているのは「母なる自然のおっぱい」というエッセイ集の中の文章に出て来る桃太郎論を政治家が取り上げたことで、新聞紙上で同氏の返信があったことがきっかけだった。桃太郎話を明治以降の近代化の文脈で取り上げた文章だ。実はこれは同氏ご自身が、文庫本のあとがきで解説されているようにオリジナルではなく、福沢翁などを含む明治以降の知識人が何回か取り上げてきたテーマのようだ。数年前に同趣旨のテーマが広告賞を受賞して話題になったこともまだ記憶に新しい。
 
A新聞の夕刊で池澤氏が、同じ文脈で最近の沖縄問題に関して「何故、土人という言葉が飛び出すのか?」という問題を提起している。この文章の結びで沖縄と原発問題の共通性が指摘されていた。わたしの故郷に近い柏崎・刈羽についても言及されているので考え込んでしまった。学校で法律を学んだ時には「個人の幸福追求の権利」は「公共の福祉」によって制限されることがあり得ると教わった。自分の選んだ立場を理論つけしようとすれば、どちらも可能である。「多数説」が時代によって左右に振れながら登場してくる理由だろう。
 
明快な答えを見つけにくい問いについての論争でこれまで「公共の福祉」論がやや優勢だった気がするのは、右肩上がりで経済が成長し、世の中が「発展」していた時代には、「公共の福祉を優先させれば、全体として皆が幸せになる」という考え方が共有されやすかったからだろう。高度成長の時代が終わってしばらく経ち、社会の方向性についての見方も多様化した現在ではどうしても地域格差の問題に焦点が当たらざるを得ない。その意味で池澤氏の論説は極めて現代的だ。添付の記事は登録すれば無料で読める。
 
エネルギー論としての原発については様々な意見があるだろうが、わたしの立場は単純だ。故郷である新潟県がエネルギー消費地域の植民地として犠牲になることには反対だ。夕刊の記事を読んでそんな思いを強くした。
 

2016年10月31日月曜日

野村萬斎氏とロンドン

昨晩のBSで2時間番組を観た。狂言師の家に生まれ3歳の時から稽古の生活を続けてきた萬斎氏が英国に留学して、シェークスピア劇と出会って以降のエピソードが満載のすごい番組だった。22年前と聞いて複雑な気持ちになったのはそんな昔のことだったかなと思ったからだ。実は萬斎氏が英国留学していた時期にこの人に数回お会いしている。ロンドンの日本人社会が面白いのは、様々な集まりの規模が限られているので東京ではなかなかお会いできない人々に出会う機会があることだ。最初に見かけた時は長髪が印象的だったが、少し近寄りがたい感じもする若い人だったように記憶している。それからしばらく経って邦人向け現地紙英国ニュースダイジェストの紹介記事でこの青年が将来を嘱望された若手狂言師であることを知った。

やがて大使館主催やら、日本人会主催で狂言紹介のイベントがありこの青年はロンドンの邦人社会でも引っ張りだこの人気者となる。当時の大使館にご近所でもあり仲良くしていただいたM先輩ご夫婦がいらっしゃった。あるイベントで萬斎氏とMさんご夫婦に混ぜていただいて話が弾んだことも懐かしい。もう一つは某社の事務所で狂言紹介の会が開かれた時の記憶だ。主催者である事務所長氏が萬斎氏に向かって狂言についてのウンチクを披露したのはまだ良いとしても「君も頑張りなさい」という結びで上から目線のスピーチを終えた時には何だか恥ずかしかった。他人事ならどうでもいい話だが、その数年前までその会社にお世話になっていたので気になったのだろう。

英国留学を終えて帰国してからの大活躍はよく知られているところだ。この人は留学中に真剣にシェークピア劇と向かい合ったらしい。本場英国のシェークスピア劇を各国語で表現することは多くの演出家が試みている。世界のニナガワ氏も日本的な解釈を日本語で上演して、いくつもの名作に仕上げ、それをロンドンで上演して大評判となった。萬斎氏がユニークなのは自身で演じたマクベスを英語で演出し、いくつかの海外公演の後で本場英国に持ち帰ろうとしている点だ。これについて英国の俳優が「外国流に翻案するならいざ知らず、もともとの英語劇を外国人演出家が英語で翻案するというのはハードルが高すぎないか?オリジナルを知り尽くしている英国の観客にとっては抵抗があるはずだ。」という趣旨のコメントをぶつけている。苦笑いの萬斎氏が答えていわく「リスクは大きいが、今の時代にシェークスピア自身が上演するとしたら、どういう風に表現したいだろうかに興味がある」と答えていた。

BSの番組では中島敦原作の「山月記」を演出した舞台も紹介されていた。新しい試みに取り組む姿勢が目立つ人だが、この秋には鎌倉宮の薪能の舞台で古典「昆布売り」の舞台を観る機会があった。本業の狂言の舞台が最高に面白かった。興味深い人だ。






 

2016年9月20日火曜日

「レミングスの夏」という本を読んで昔のことを思い出した

乱歩賞作家で竹吉優輔という人の書いた「レミングスの夏」という本を読む機会があった。この題名を眺めている内に昔のことを思い出した。わたしが最初に勤めた会社は今は大変なことになっている。会社というものが30年くらいのサイクルで浮き沈みするということは知っていたつもりだった。郷里である新潟県栃尾市(現長岡市)・見附市の繊維産業が70年代の石油ショックと日米貿易摩擦の後で激変し、その昔地方都市で栄華を極めた経営者たちの何人もが死を選んだ話を身近で聞いた。そのくらいの激変が自分が11年勤めた会社で実際に起きてみるとなんとも言えない気持ちがする。

1970年代の最後の年に大学を卒業したわたしが選んだのは電力会社だった。その頃いろいろな事情もあって早く社会人になって自立したいと思っていた。自分の生き方を探りながら大学に残る人たちもいたが、そういうリスクを取ってでもやりたいことが何なのか当時の自分にはわからなったのだと思う。実際に会社選びとなると明確なイメージがなかった。それでも石油ショックの後の世の中でエネルギーが重要なトピックになるかも知れないという思いはあったはずだ。「日本のエネルギーをリードする会社」というようなリクルートブック辺りのキャッチコピーに影響されたかも知れない。

別のブログで書いているが、学生生活の終わりと社会人生活のスタートはその頃の自分の状況に微妙な変化が生じた時期と重なっている。何やら拍子抜けした気持ちで始めた関東近郊での会社員生活が始まった。それでも3年の現場勤務が終わって東京本社に配属になると緊張感に満ちていて楽しかった。会社を選んだ頃の自分のように「エネルギーの未来」を考える同僚たちと出会ったこともありがたかった。この頃出会った人たちの数人が社内留学を考えていたこともその後の自分の生き方を変えることになった。

その頃の会社の仲間との勉強会で使った本の一冊がエイモリー・ロビンスの「Brittle Power (脆弱なパワー)」だった。1976年の「ソフト・エネルギー・パス」が世界中で読まれて名を知られた米のロビンスが1982年に発表した本で、米国のエネルギー供給構造の脆弱性を指摘するものだった。2001年9月11日の世界貿易センターへのテロ攻撃の後でそれを予見した本として再度脚光を浴びた本でもある。この本の一つの章の題名が「Forward Lemmings」だった。人間の欲望と消費行動をコントロールしないまま、増加し続けるエネルギー需要に見合うだけの供給力だけを確保しようとするエネルギ―政策とその危険性に警鐘を鳴らした本の中で、人間は破滅に向かうレミング(旅鼠)の集団に例えられていた。

原書の読書会の本のことを何故覚えているかと言えば、当時はグループの議論についていくだけの英語力がなくて口惜しかったことを忘れていないのだと思う。この勉強会に参加していた同僚たちはその後何人も会社を離れて行った。彼らの何人かは駒場で産業論の講義として「日本のエネルギ―政策」を講義したK氏の感化を受けて電力会社を選んでいた。当時この人はOECD/IEA(国際エネルギー機関)への出向から戻ったばかりで、会社の花形社員だった。その後は会社の幹部となり原子力推進についてテレビで論客を務めた後で、政界に転じた人だが2011年の原発事故の後は消息を聞かなくなった。


2016年9月12日月曜日

ミャンマー植林の旅 「ビルマの竪琴」の空想の舞台を追って

この夏の終わりにミャンマーへ旅をした。若い頃にバックパックを背負って欧州も、インド・スリランカ・ネパールもペルー・ボリビア・メキシコも旅しているが、還暦が近い歳になると一人旅は気が重い。知り合いの方が主催されているNGOの植林ツアーのことを知り、記録写真係を志願して連れて行ってもらうことにした。植林ツアーの目的地は古都バガンだった。日本から行く場合は首都ヤンゴン経由となる。ヤンゴンは暑くて湿気が多く大変だったが大きな寺院や涅槃像で有名な寺院やアウンサン将軍の記念館など見どころもたくさんある。ヤンゴンの空港に着くと現地側パートナーとしてこの旅に参加してくれた団体のメンバーたちが待っていてくれた。到着時間が遅めだったので宿にチェックインする前に、空港からの途中でレストランで夕食となった。

この席で同席したのがADさんだった。話が面白い人で旅の間ずーとお世話になって楽しかった。夕食をしながらこの国と植林ツアーについて説明を受けた後で「質問はありますか?」ということだった。「「ビルマの竪琴」という映画を古いのも、新しいのも観たことがありますが、この映画の原作になった本のことを知っていますか?」 と質問してみた。「こちらでも翻訳されている素晴らしい本です。でも書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という返事を聞いてびっくりした。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反だという点だ。物語の中では日本兵である水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。その時に戒律違反の楽器を持ち歩き、さらに演奏もするということであれば目立ち過ぎて説得力を欠くことになる。

僧侶と竪琴の関係以外にもう一つ気になったのは、牛についての記述だ。文庫版の165頁に「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」という記述がある。わたしが今回の旅で牛車を引く牛たちを見かけた時に同行した人たちに「あれは水牛でしょうか?」と聞いてみると「違うよ。牛だよ。」と教えられた。帰国して調べてみるとコブ牛というものらしい。なるほど首を前に垂らしたその付け根のあたりが骨の突起のような形でこぶ状に見える。よく見かけたこのコブ牛の角はさほど大きくない。水牛ということになると角も体ももう少し大きいようだ。

市川崑監督の映画は安井昌二主演の1956年作品も、中井貴一主演の1985年作品も観たことがあるが原作を読んだことがなかった。バガンから帰国して、書店で新潮文庫版を買った。著者あとがきによるとこの作品は昭和21年から23年まで童話雑誌に子供向けの物語として連載されている。戦後間もない話だ。23年の秋に中央公論社から単行本として出版され毎日出版文化賞、25年に文部大臣賞を受賞した。文庫版の後ろの「ビルマの竪琴ができるまで」という著者の文章が面白い。ここに「一度もビルマに行ったことがない」と書かれている。終戦当時すでに40代の半ばだった著者は軍隊生活もほとんど経験していないそうだ。

旧制一高の教授として多くの学徒を戦地に送り出したことで、鎮魂の物語を書きたいと思ったことが書かれていた。著者の執筆の目的は徴兵されて異国で野仏となった人々の慰霊にあるので場所は何処でも良かったわけだ。最初は中国南方のどこかの城市に籠城する設定だったが、敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面を考えているうちに、スコットランド民謡やアイルランド民謡を登場させることを思いつく。このため旧英植民地だったビルマが舞台になったと説明されている。

空想物語であり、童話として出版されたはずのこの本を読んでみると、著者が行ったこともない国が舞台となっているにもかかわらず、リアルな印象がある。物語の読後感は深い。そういうわけで、この夏の終わりに自分で撮影したミャンマーの風景をしみじみと眺めている。

10頁「ここらの森は大きなチークの木です。そこには猿が跳ねているのも見えます。。。」


15頁「赤と黄の模様のあるルーンジという腰巻のようなものをすると、どう見ても生まれながらのビルマ人でした。」
 

24頁「村人たちはわれわれの歌を、まるで儀式の時のようにまじめにきいていました。」
   

43頁「まったくの竹の柱に萱の屋根です。床が高く、風遠しよくつくってあるので、そう湿気ません。」
  

47頁「椰子の実が重要な食糧であることは有名です。」


57頁「ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。」
 

111頁「寝姿の仏像も多く、中にはいく十メートルもある仏様が上半身をなかば起こしているのもあります。」


165頁「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」
 

171頁「人間は一度はかならず死ぬものだし、死ぬことによってこの世の煩悩を脱れて救われるのだ、人間がそこからきた本源にかえるのだ、と信じています。」
 合掌。
 

2016年9月8日木曜日

ミャンマー植林の旅 ゴミ捨て場のカラスたちとリサイクル図書館のこと

ミャンマー日本エコツーリズム(MJET)という日本のNGOがミャンマーの古都バガンで活動していて、バガンにある村々を選んで毎年1000本くらいの木を植えていると聞いたので、わたしも参加させていただいた。8月26日から9月4日まで9日間の旅だった。日本からは大学生3人を含む10人が参加した。現地のネイチャーラバーズというグループから6人が参加した。このNGOによる植林活動はすでに6年ほどの実績があるそうだ。これまでに植樹した数か所の村を回って若木の生育状況を確認するとともに、今年も新しい村で1000本の植樹を行った。子供たちは植林作業では苗運びを手伝った。村の男性たちは穴を掘ってくれ、女性たちは植えるのを手伝ってくれた。植樹だけでなく今後の水やりなど村を挙げて「自分たちの村の緑を守る」という意識と協力がなければボランティア活動としての植林活動は成り立たない。日本のNGOはこうした活動を企画実行すると同時に、日本で賛同者を集めて資金集めをしている。

これまでに植樹した林の状態の視察結果は場所ごとに様々だった。9割近くの木が育ってきれいな林が日陰を作っているところもあれば、白アリにやられてほぼ全滅のところもあれば、7割程度の木が生育しているところもある。首都のヤンゴンは一日に何度もスコールが降り、高温多湿だが、バガンは亜乾燥地帯であり8月末の滞在中には雨が降らなかった。今回植えた木はチークとタマリンドだった。これまで植樹された各村で木々の生育状況が異なるのは村人による乾期の水やり状況、水利当局による灌漑用水の配分状況、白アリなどの生息状況など様々な要因がからむそうだ。いくつか立派に生育している木の林をみていると宮沢賢治の童話「虔十公園林」を思い出した。

植林の旅では小学校をいくつか訪れた。村の共有の土地で木を植える場所として校庭の隣が選ばれることが多いからだ。MJETというNGOはここで学校の先生たちをサポートしながら環境の大切さを子供たちに実感させる目的で実験授業の試みも始めている。今後のMJETの活動として力を注いでいくことになるのはゴミの処分とプラスチックゴミなどのリサイクルだそうだ。バガンの村のゴミ捨て場の様子を見てみるとかなり深刻な状況にある。小さな村では焼却場の建設という方法は難しいので、適切な場所に穴を掘って埋めることになる。この対応が遅れている場所がゴミ捨て場と化してしまうと後は雪だるまのように大きくなっていく。もう一つの問題はキチンとしたゴミ捨て場とゴミ回収の仕組みがないと学校の隣などの村の共有地にゴミが散乱する状態になりやすいことだ。1.いくつかの村の連携をはかりしっかりした埋め立て地を作って運営していく。2.村ごとにゴミ収集のルールを作り、リサイクルを進めるなどしてゴミの量の減少をはかる。3.学校周辺などでゴミ拾いの運動を起こすなど環境美化のキャンペーンを進める。。。等々の対策が必要だと思われる。




ミリンダ図書館というプラスチックゴミのリサイクルの実例を見学する機会があった。ペットボトルを有料で回収し、それを壁の内部の建材として活用している建物だ。これは素晴らしい試みた。その昔3千ほども仏塔のあるバガンの森が消滅し、乾燥化が進んだのは仏塔を作るための煉瓦を焼くために多くの木が使われたからだそうだ。ペットボトルのリサイクルによって燃料として使われる木の消費量を減らすことは、木を生育させる植林と同様の効果を生むことになるはずだ。







ミャンマーという国で自然や街の風景というのが直接の動機で参加した植林ツアーだが、様々なことを考えさせられたのでしばらくわたしのミャンマー熱は続きそうだ。





 

2016年8月23日火曜日

ビシュケクの料理店 青瓦台の記憶

1986年以来、2年間を除いて海外で過ごした。旅したり住んだりした国々の食卓についてノートを書いたが2007年の末から3年半暮らしたビシュケクについては、シャシリク、ラグマン、プロフなど中央アジアに共通の料理よりも、朝鮮半島料理の印象が強い。韓国のビジネスマンが退職してレストランを開いた店もあれば、スターリンの時代に満州から移住させられた朝鮮の人々の家族が開いた店もあった。朝鮮半島出身の人がたくさんいるのでコリアン料理の激戦区となる。競争を勝ち抜いている店は美味しい。焼肉と付け合せの様々な野菜、キムチ、石焼ビビンバなど定番ものはもちろんだが、それ以外に家庭料理風のメニューもある。

ビシュケクの青い看板が目印のチョンギバという店によく通った。漢字で書くと青瓦台となるそうだ。マスターが良い人でビシュケクの郊外にあるメープル・ツリーのゴルフ場で会うと、いつもにこやかにあいさつしてくれた。彼はわたしが一人でもチョンギバにランチに通い、夕方はお客さんとの会食とかスタッフと飲み会にも、この店を使ったので喜んでくれていた。この店のサバのコチジャン煮が絶品だった。アジア食品のスーパーもたくさんあるので冷凍のサバは簡単に手に入る。熱々ヒタヒタの辛みそスープにサバの切り身とよく煮えた大根がたっぷりだった。辛みそスープを白いご飯にかけるとたまらない。熱々でやけどしそうになるのでよく冷えたビールは欠かせない。ポイントは唐辛子味噌の使い方だ。癖になる味だ。

 この店に限らないが、メニューにはなくて、韓国の友人たちと会食した時だけ出てくる食べ物があった。茶碗蒸しのようでもある。ケランチムという名前だった。タシケント以来の長いつきあいで、ビシュケクで再会したKYと一緒だったりすると必ず出てきた。一人分用の小さな鉄釜に入って膨らんでいるのを、熱々の内にスプーンで食べる。火傷しないように少しずつ食べる。茶碗蒸しというよりもスフレに近い。ケランは鶏卵のことでチムは蒸したものの意味だと教えてもらった。具は入っていない。シンプルで優しい味がなんとも言えない。ビシュケクを離れる頃には、頼まなくても時々出てきた。常連として認められたようで嬉しかった。もう一つある。インスタントラーメンと魚肉ソーセージが入っているチゲ(鍋料理)の一種だ。ブデチゲという名前で、漢字で書くと部隊チゲとなる。妙に懐かしい味だった。

 

2016年8月17日水曜日

2つの民話 たらい船を漕ぐ娘と山を越えて走る娘

寿々木米若の「佐渡情話」という浪曲は見附の父が元気な頃の持ち歌だった。懐かしいのでCDが書棚にある。柏崎の漁師が荒波で難破し命を落としかける。佐渡の人に助けられて、回復を待つ日々を過ごしている内に、助けてくれた人の娘と恋に落ちる。傷が癒えた若者は必ず迎えに来ることを誓って柏崎に帰っていく。その時に娘には赤ん坊が出来ている。その後紆余曲折があり、はらはらの連続だが、最後にめでたしとなる。 この話には別にオリジナル版があってそちらは不倫も裏切りもある凄い話になっている佐渡ヶ島の娘と海を隔てた柏崎の男の物語である点は共通している。かよわい娘がたらい舟で佐渡から柏崎まで渡ってくる怪力物語になっていることがすでに謎めいている。美空ひばりさんが歌った「ひばりの佐渡情話」はオリジナル版に近い悲恋物語をせつせつと歌うものだ。

長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。民話を読んでみるとこれも凄い話だ。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。この辺りは佐渡情話と共通している。娘は温かいつきたての餅を運んでくる。不審に思った若者が問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。娘が異常な力を持っていること気がついた若者は怖ろしくなる。ついには疎ましくなって娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷には真っ赤なつつじが咲くようになったという伝説だ。





2016年8月13日土曜日

ロケット弾と竜神の話

1999年の春から2004年の秋までウズベキスタンの首都タシケントで、国連専門機関に勤務されていたHさんとご一緒した。ジャーナリストだったご主人から、わたしが働いていた組織と現地政府との関わりについて質問されたことがあった。当時は微妙な話題が多かったので、返答に困ったので覚えている。Hさんは、その後シリアの首都ダマスカスで勤務することになった。ある時に日本に里帰りして神社にお参りすると、シリアに戻ってからも竜神様のようなイメージが脳裏から離れなかったというのがご本人の記憶だ。ダマスカスのプールで泳いでいると後ろ5mほどのところにロケット弾が着弾した。「物騒なご時世に水泳か」と思う人もいそうだが、途上国の勤務では体力と気力の維持が大切だ。物騒な国だからこそ運動したり、歩いたりできる場所は限られる。ホテルの施設くらいしかない。ロケット弾が水の中で破裂したおかげでHさんは九死に一生を得た。Hさんは龍神さまのご加護だと思ったそうだ。

龍のイメージで鮮明なのは小学校の時に学校で上映されたアニメ「龍の子太郎」だ。童話作家の松谷みよ子さんが長野県の民話をもとに再構成したこの作品は1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。山の仕事で疲れ果て、空腹で気が遠くなりそうだった太郎のお母さんは、川でとれた魚を焼いている内に仲間の分まで食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまう。残された太郎少年が、龍となった母を探し求める冒険物語だ。子供心にその魚が焚き火でジュウジュウ焼ける香ばしい匂いと、空腹に負けて一匹また一匹と食べてしまう場面が怖ろしい記憶として残っている。自分がそのような立場に立たされたとしたら誘惑に打ち勝つ自信がなかったからだ。極限状態に近い空腹を抱えながら、食べてはいけないというのも酷な話だ。

郷里である新潟県長岡市に高龍様という神社がある。上越線の宮内の辺りを流れる太田川の源流の辺りだ。見附の父が元気だった頃に一緒にお参りに行って交通安全のお守りをもらったことがある。このお守りはわたしが日本を離れて、様々な国を仕事で訪れるようになった時に必ず旅行のカバンに入っていた。コーカサスへの出張でも、中央アジアへの出張でも一緒だった。こちらの神社は「蛇」がご本尊だ。しぶとい生命力と根気強さから商売繁盛にご利益があるとされている。その昔は、長岡の厚生会館ホールなどで芸能人の公演がよく開催された。ヒット祈願などで高龍神社を訪れた有名スターも多いそうだ。父を思い出す場所になった。

フビライ汗と馬頭琴「スーホの白い馬」の思い出

1993年から2015年の夏まで働いた職場は発足当初はロシア・東欧の国々が活動の対象国だったが、2000年代後半になってモンゴルも対象国となった。バット君は職場で知り合ったモンゴルの人たちの一人だ。この人の本名はもっと長いが誰も発音できないので短い通称を使っていた。ある日彼のオフィスの前を通りかかった。通路と個室を仕切る壁はガラスなので中の様子が見えた。デスクの壁に飾ってある丸顔で威厳のあるアジア風ポスターが気になった。「今日は」と言って彼に話かけた。フビライ汗の肖像だった。モンゴルの話になった。わたしは作家開高健のモンゴル紀行などを読んでモンゴルに興味があるという話をした。バット君がおもむろに机の引き出しを開けた。「君がモンゴルを好きなのはうれしい。このCDも聴いてくれ」。馬頭琴の演奏CDだった。気持ちの良い音だったのでそれからしばらく聴き続けた。

2014年の夏に千石にあるモンゴル料理店シリンゴルを訪れた。高校同窓のフェースブック友だちと3人だった。モンゴル料理は初めてだったが、中央アジアに駐在して以来、羊肉は大好きだ。途中で馬頭琴の演奏があった。モンゴルの草原を馬が駆けているような軽快な曲と中国風のなんとも懐かしい感じの曲だった。軽快な曲はモンゴルの物語「スーホの白い馬」の音楽だった。大切なものと出会う喜びがあり、理不尽な形で別れがくる悲しみを歌うのは世界中で共通する感情だ。その次に客席から若い人が呼ばれて馬頭琴の弾き語りとなった。太い弦が低くふるえているような声が響いてきた。お坊さんたちの読経の声を思い出した。

蛇足になるが、「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督、2007年)という山口さよこ(小夜子から改名)さんが主演した映画があるそうだ。山口さんはこの映画の完成後の2007年の夏にご逝去された。この映画いつか見てみたい。

2016年8月9日火曜日

忍者修行の里と伊勢の餅菓子のこと

W文春に「忍者修行の里」という風景写真が載っていた。涼しそうできれいな景色だと思いながらテキストに目をやると「赤目四十八瀧」とあるのに気が付いた。2015年の5月に逝去された車谷長吉氏の直木賞受賞作の舞台だ。鬼気迫る本だった。主人公は作家になりたくて、東京のサラリーマン生活を捨てる。作家志望専業になって転がり込んだ実家の母親は息子に愛想を尽かす。「他人様は上手いことを言うだろうよ。お前が野たれ死にしようがしまいがどうだっていいだろうから。それを真に受けてどうする。」  この小説の主人公は、仕事を転々として、やがて大阪尼ヶ崎のアパートの一室でひたすらモツ肉の串を刺し続けることになる。怪しげな場所に居つくようになること、それなりに居心地の良さを発見すること、不思議なヒロインが登場することの3点で安部公房の「砂の女」を連想させるが、「赤目四十八瀧心中未遂」を際立たせているのは緊迫した情念の強さだ。

この広告の伊勢の餅菓子には思い出がある。東京で会社員をしていた時に同じ部に新しく入ってきた女子がいた。伊勢の出身で、この広告の老舗とライバルにあたるお店が実家らしい。わたしが会社を辞めた時にその関連の玉突き移動で、彼女は調査課から購買課というもう少し実業に近いグループに移動となった。口数の少ない人だったが「お辞めになるおかげで、わたしが購買課に行くことになって大変ですよ」と声をかけてくれたのを覚えている。世間の注目を浴びた疑獄事件で失脚した政治家の人と同じ苗字だった。親戚だそうだ。

「何気ない写真」 と 「伊勢」の組み合わせで松本清張原作、野村芳太郎監督の傑作 「砂の器」 (1974年) を思い出した。人情味豊かで人望のある老巡査が定年後に伊勢参りの旅に出る。旅先で行方不明となり、東京で殺人事件の被害者として発見される。幾重ものトラウマを抱えて手負いの獣のように生きる主人公を描いた物語は、映画全編を流れる音楽と、流浪する父子の旅する日本の風景が印象的だった。旅先の田舎の駅に飾ってあった何ということのない集合写真を目にしなければ、それに続く悲劇が起きる必要もなかったのにと痛ましい気持ちになる。傑作だ。

映画「砂の器」を観たのは1975年3月だ。大学入試の発表の日だったので覚えている。お昼に新宿で高校同級のN君と会った。二人で昼飯を食べてしまうと、まだ日が高かった。どうにも結果発表のキャンパスに足を運ぶのが気が重い。その数日後に2期校受験が待っていた。すでに浪人を決めていたN君の誘いだったような気がするが、新宿ピカデリーで「砂の器」の看板が見えると、まずは映画でも観てからということになった。長い映画で途中から発表の方が心配になってきた。映画館を出るともう暗くなりかけていた。結果を見附の父に電話すると叱られた。連絡がないので、落胆のあまり失踪したのかという話になっていた。

2016年7月16日土曜日

英国首相の就任スピーチ

6月に行われた国民投票以前のBBCの予測記事ではメイ内相はオズボーン蔵相、ジョンソン元ロンドン市長と並んで、次期首相候補の3強の1人だった。3月24日のBBC記事によるメイ女史の人物評は「英国のメルケル(=強い女性)、手堅い実務手腕、カリスマ性を欠くとの声もある」などだが、重要な閣僚ポストである内相を長く勤め、移民問題、犯罪撲滅ではタカ派の姿勢で一貫していて、保守党内の人気は常に高かった人だ。党首に選ばれての第一声では「EUとの交渉をまとめることで英のEU離脱を成功に導く」と「人々に強い決定権(コントロール)を与えることで国内の統一をはかる」を強調している。

メイ新首相が7月13日に行った就任スピーチのコピーを入手したので、帰りの電車で読んでいて感動した。格調の高い名演説だ。スピーチライターの世界を描いた原田マハ著「本日は、お日柄もよく」を思い出した。以下はスピーチの抜粋。

「もしもあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりもずっと大変な人生でしょう。あなたが仕事についているとしても、いつまで仕事があるか心配していることでしょう。あなたが持ち家に住んでいるとしても、これからのローンの返済がどうなるかを心配していることでしょう。あなたがなんとか日々の暮らしをやりくりできているとしても、生活費をまかなうことや子供たちをどうやって良い学校に入れようかということで思案していることでしょう。私はそんなあなたがたに、直接呼びかけたいのです。あなたがたが昼夜働きつめていて、ベストを尽くしていて、それでも時折うまくいかないこともあることを私は知っています。私が率いる政府は、少数の特権階級ではなく、あなたがたのことを優先することによって運営されるのです」(原文より抄訳)

揚げ足取りで恐縮だが、メイ首相の就任スピーチを紹介している大手A新聞が以下の部分を誤訳していた。

「もしあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、ウェストミンスター(ロンドン中心部)の人よりも人生はずっと大変でしょう。」(A新聞訳)
これは「than many people in Westminster realize」の箇所の訳だ。訳した人は「ロンドン中心部に住む富裕層よりも」という意味にとったようだが、この意味ならお洒落なチェルシーやハロッズのあるメイフェアのほうがピンとくる。ウェストミンスターは国会議事堂の所在地だ。ビッグベンの大時計のある建物がそびえ立つ辺りだ。このスピーチの主要メッセージは弱者目線からの新しい政治姿勢を訴えることなので「多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりも」と訳すべきところだ。

 

バングラデシュのテロ事件で気になったこと

バングラデシュで開発協力事業に携わっておられた方々が命を落とされたことで心が痛んだ。わたしも長くこの業界でお世話になったので複雑な思いがする。1995年3月のバクーのクーデター未遂の銃撃戦はわたしの宿泊していたホテルの前で起きた。1999年4月にはタシケントに赴任する直前に、職場近くで大規模な同時爆破テロが起きた。2010年4月のキルギス政変の時には住んでいた家を逃れて地元の友人の家に避難した。一週間ほどは何が起きるかわからなかったので緊張した。そういう事態が起きている国に駐在していて、偶然テロの現場に居合わせればいつでも巻き込まれる可能性はある。

1)駐在ないし長期出張先の国でテロ事件に遭遇する可能性があること、2)それらの国々に親日家の人々がいて親切にされることも、そうでないこともあること、3)開発協力の対象となる途上国に不満を抱えた人々を生み出す状況が存在していること、4)不満を理由として暴力に訴えるテロリストが存在していること等がテロ事件が起きるたびにひとからげで報じられ、議論されている気がする。親日国かどうかを事件発生後に議論しても仕方がない。その国の現状を分析し直したところで殺された人が生き返るはずもない。テロリストが次々と誕生する社会の仕組みについて分析すべきなのはまた別の話だ。開発協力などで治安が不安定な国で仕事をする場合に、事件に遭遇するリスクをどうやってミニマムにするか?セキュリティのプロに頼ることも含めてどのような対応が可能か?そのためにどのくらいのコストがかかるかに絞った議論が必要だ。


先日、友人たちとの会合でバングラデシュの事件の話になった。「どうして「我々は日本人だから殺さないでくれ」なんて恥ずかしいことが言えるのだろう」という疑問を呈する人がいた。「どこの国の人であろうと平等に助かるべきだ」という趣旨の質問だと理解している。しかし異国でテロ事件に巻き込まれて「日本人だから。。。」と訴える側にも、言い分はあるはずだ。1980年代の途上国に駐在する商社マンたちの悲哀と苦労を描いた「僕らはみんな生きている」という映画がある。この映画の中でも空港への脱出をはかる4人の駐在員たちは「われわれは日本人のビジネスマンだ。おたくの国の中の仲間割れで殺さないでくれ」と訴えていた。それでも銃弾の雨は降ってきた。


殺されるかもしれない状況で「自分は日本人だ。異国の土地で死にたくない」というのは自然な感情だ。誰かよその国の人を身代わりにして自分だけ助かりたいというのとは次元の違う話だ。もしも自分が殺されるほど誰かに憎まれているのなら(それも困るが)、少なくとも理由を聞きたい。何も知らずに殺されるのは嫌だ。ましてやその場にただ居合わせただけという理由で殺されるのは納得できない。大音声で自分が誰であるかを告げて「貴様たちも名を名乗れ!人違いではないのか?何故銃を向けるのだ?」と問い質すのは当然だ。それでも、コミュニケーションが成立しない場合もあるだろう。戦前のどこかの国みたいに「問答無用」と撃たれることもあるかも知れない。それでも無言で死ぬのは嫌だ。
 

「キルギス人と日本人は兄弟」という説がある

キルギス駐在時代の友人からショロ社の記事をシェアしていただいた。この記事に登場している社長さんとは何度もご一緒する機会があったので懐かしい。東北大震災の時に被災地にミネラルウォーターを届けてくださった人だ。文中に「もし必要があれば、震災孤児をジュマドゥル氏が自身の家族で受け入れることができるという表明を日本大使へ行った。社員の中にも受け入れに名乗り出る人々が相次いだ。」と紹介されている。

2011年3月にわたしはビシュケクのTVで津波と震災と原発事故の様子を見ていた。わたしも現地の友人から「放射能で大変なことですね。日本の家族や親せきが住むところに困ったらわたしのダーチャ(畑仕事用の山荘)を使ってください」と言われて感激した記憶がある。

キルギスには「日本人は魚が好きで東に移動したが、肉が好きで山に残ったキルギス人の兄弟である」というテーブルトークが好きな人がたくさんいる。古からの同胞である日本人が西欧をリードする産業技術を発展させていることに好感をもっている日本好きがキルギス共和国には多い。


 
 

2016年6月21日火曜日

バッテラと棒寿司 ロンドン「但馬亭」で棒寿司を食べたこと 

フェースブックには一年前の投稿を再読させてくれる機能がついている。良い記憶につながる場合はありがたい。そうでない時もあるが、フェースブックには記録したいことを書くので、リマインダー機能に感謝することが多い。

去年の今頃の送別会の投稿が出てきた。以前のロンドンの職場を退職したのは去年の7月なので、6月には何度か送別会をしていただいた。職場の邦人の同僚8人で「但馬亭」に集まってもらったのも懐かしい。皆さん長く職場にいて仕事で関わった人たちだが、家族のある女性陣5人と飲んだり、食事したことはほとんどないので貴重な機会だった。この日本レストランは地下鉄セントラル線のチャンセリー・レーン駅の近くで、職場まで歩いても30分くらいのところにある。

ビールの小瓶の後で男性陣3人は麦焼酎のボトルを空けた。つまみの松前鮨と鰻棒寿司が美味しかったので鯖寿司についてググッてみた。棒寿司とバッテラはどう違うのだろう?バッテラはポルトガル語の小舟に由来するとするものが多数意見で、オランダ語由来だとする少数意見もあるようだ。パリを訪れてセーヌ川下りをした時のボートも「バトー」で似たような音だった記憶がある。そんなことをフェースブックに投稿してみると、物識りのKさんが即座に教えてくれた。「Boatにあたる標準ポルトガル語は Barco (英語の barge = はしけ、と同じ語源)ですが、漁師が漁に使う小舟は Bateiraと呼ばれます。」ふーむ、博覧強記とはこの人のことだ。

ロンドン金融街の風景
 

2016年6月20日月曜日

「サラセン人の麦」って何?

去年の暮れに渋谷で「リバプール美術館 ラファエル前派展」を観た時に「サラセン人の娘」という題名の絵があり、久々に「サラセン」という言葉に触れた。それがきっかけで調べてみると、現在ではこの言葉は使われないという説明を見つけた。「アッバース朝イスラム帝国」ならば良くて、当時の欧州人が使っていた西側の言葉は良くないということらしい。そういう理由での地名の変更は他にもたくさん例がある。インドの街の名前がたくさん変わった時もびっくりした。若い頃のバックパックの旅の思い出につながるのは古い地名のほうだから、それが消えてしまうのは寂しい。

「サラセン人の麦」も珍しいので残してほしい言葉だ。2年ほど前にフェースブックで欧州言語同時翻訳ソフトという優れものが紹介されていた。面白いのでしばらくはキュウリ、ピーマン、紫陽花などの名前の変化と分布を眺める一人遊びにはまっていたことがある。蕎麦は英語ではbuckwheatと言う。これを翻訳ソフトに入れると仏語で「サラセン」、露語で「グレチカ」などと出てきた。この時に出てきた「saracen」というローマ字を読んだ時は、日本の更科蕎麦(sarashina)を食べた人がフランスに外来語として持ち込んだのかなと思った。ググって見ると中国原産の蕎麦がサラセン帝国経由で欧州に広まったとある。

蕎麦は昔から好きだが、仕事で中央アジアに長い間住んだ時に蕎麦の美味しさを再発見している。キルギス共和国の首都ビシュケクに駐在していた時の職場にキッチンがあった。お昼になるとロシア人のおばさんが腕を振るってくれた。この時に付け合せとして頻繁に登場したのがグレチカだった。東西の食べ物の類似はとても面白いので、他にもブログで書いている。


 

2016年6月14日火曜日

キュウリとガーキンの違いについて

ロンドンの金融街シティの風景として登場することの多い丸みを帯びた高層ビルはガーキン(Gherkin)という愛称で呼ばれる。辞書を引くと「ピクルス用の若いキュウリ」とある。そのままキュウリと訳してはいけないのだろうか?しばらく前にフェースブックで欧州多言語翻訳ソフトという優れものが話題になったことがある。このソフトを使って英語の「キュ-カンバー(cucumber)」をチェックしてみると独語で「グルケン」、露語で「アグリエッツ」と出てくる。

「ガーキン」という言葉は東欧・旧ソ連地域でキュウリを示す言葉の中の「グル」や「グリ」の音に似ている。冬の厳しい地域で保存食であるピクルスをよく食べることは独語圏のウィーンに住んだ時の記憶とも、仕事で冬の旧ソ連圏の国々を訪れた時の記憶とも合致する。訪れた街角のレストランで前菜やサラダのメニューの中にピクルスの盛り合わせがあるかチェックすれば明らかだ。

わたしは酢漬けのトマトもキャベツも大好きだ。キュウリのピクルスも好きだが、これはこりこりしていないと美味しくない。「ふーむピクルスのキュウリはロシア系とかドイツ系の友人の家のパーティで食べたのが美味しいなあ。だからこれはキュウリとは違うんだ。ガーキンでなければ」というふうに英語圏の人たちがいつもとは違う言葉を愛用するようになっても不思議ではない。

http://www.ukdataexplorer.com/european-translator/?word=cucumber



 

2016年6月10日金曜日

サルビアとセージにはいろいろな種類がある

初夏になって道端でよく見かけるようになった2つの花がある。一つは濃紺で、一つは鮮やかな赤色だ。大きさも見た目も違うので違う種類だと思っていた。図鑑で名前を調べていたら共通点があるようだ。一つはサルビア・ガラニチカ。パラグアイ原産でシソ科アキギリ属の花。メドウ・セージとも呼ばれるがこれは誤りだという説明がついている。もう一つはサルビア・ミクロフィラ。メキシコ原産でシソ科アキギリ属の小さな花。可憐な花でチェリー・セージという英名がある。

印象がまったく異なる2つの花になぜどちらも「サルビア」、「セージ」、シソ科アキギリ属」という3つの言葉が共通して出てくるのか不思議なので調べてみると面白いことに気がついた。シソ科アキギリ属の学名がサルビアだ。この花には様々な種類があって世界中に分布している。総称として「セージ」と「サルビア」が用いられている。細分類された多くの花が「サルビア・xxx」と「yyy・セージ」の二つの名前で呼ばれている。

70年代に相沢靖子作詞、早川よしお作曲でヒットした「サルビアの花」に歌われたのはサルビア・スプレンディスともスカーレット・セージとも呼ばれる赤い花だ。「あなたの部屋の中に投げ入れたくて そして君のベッドにサルビアの赤い花。。。。」 同じ頃にサイモンとガーファンクルの「スカボロ・フェア」という名曲がある。「パセリ、セージ、ローズマリー&タイム」というフレーズが繰り返し出てくる。スカボロの市場に4種類のハーブを買いに行ったのだろう。

2つの花の写真を眺めているとどちらも唇状の形に見えてくる。可憐なサルビア・ミクロフィラは園芸種として赤も白も紅白もありあちこちで見かける。「ホット・リップス」という呼び方もあるらしい。なるほどだ。濃紺の花も赤い花もどこか哀しくて妖しい感じがする。悲しい恋の歌に似合っている。
サルビア・ガラニチカ


サルビア・ミクロフィラ


サルビア・スプレンディス

 


 

2016年5月31日火曜日

「体から飛び出す」ほどの想い

先日NHKで禅宗美術についての番組を観ていたらすごい映像が出ていた。人物像のお腹から顔が出ている。尊者の内面にある仏性を表現したものだそうで、像のタイトルも「仏性」とある。人間の内部にある気持ちを表現するために、体が機械の部品であるかのように表現されているのが印象的だった。この像をみていくつか連想したものがある。

まず連想したのがメキシコのフリーダ・カーロの絵だ。この人の絵にはマンガの吹き出しみたいにあれこれと体の内部だったり、人間の顔だったりが書き込んであるものが多い。若い時に交通事故で死にかけたこの画家は体が不自由になる。自分の体の中に閉じ込められたという想いが創作の原動力になったらしい。また夫となった巨匠ディエゴ・リベラを愛し、同時に彼の女癖の悪さに苦しんだことが評伝に書かれている。その苦しみをテーマにした「二人のフリーダ」という印象的な絵がある。

もう一つ連想したのが森進一の歌った「北の蛍」という歌だ。「もしもわたしが死んだなら、わたしのこの胸を破ってたくさんの赤い蛍が恋しい人のもとに飛んでいくだろう。。。」という凄絶なイメージの歌である。名曲なので紅白歌合戦でも聞いた覚えがある。こういう歌をお茶の間のTVで家族一緒に聞くのは困ったものだ。赤面してしまいそうだ。

このイメージは式子内親王に叶わぬ恋をした歌人藤原定家の魂が、つる草になって親王の墓を覆い尽くしたという定家葛の伝承とも共通している。いつの時代にも、いろいろな人がいる。いろいろなことがある。それでも人が何かを想うことで一生懸命なのはあまり変わることがない
 

2016年5月29日日曜日

一枚の写真 狐の手袋

 ロンドンでの単身赴任時代と現在の生活の連続性を象徴する1枚の写真がある。当時住んでいた近所の風景だが、同時に別の世界への入り口を示しているようでもある。帰国後もたくさん写真を撮り続けフェースブックに投稿しているので写真をきちんと修行すればというアドバイスしてくださる先輩諸氏もいらっしゃるが、自分としてはレンズを通して見えてくる被写体としての世界のほうにより興味をもっている。わたしが同郷のカメラマンである倉重義隆氏の写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」に強く魅かれるのもそういう理由からだと思う。画像そのものではなく、そこに映りこむ心象風景に興味があるのだと思っている。

吉田健一という英文学者の書いた「英国に就て」という本の中に、堀辰雄が「狐の手袋」という題の随筆集を出していたことが書かれている。この花はとても気に入ったので、わたしのブログのカバー写真にもなっている。近所の教会と狐の手袋が対峙している写真だ。これまで見たもっとも美しい群生地はウィンブルドンの全英オープンテニスの会場だった。吉田健一は「紫がかった色の花」と紹介しているが、いろいろな色がある
。イザベラ植物園にも、ホランド・パークにも咲いていた。英国の妖精の絵にも登場する謎めいた花だ。日本では「ジギタリス」という名前で園芸種として知られている。不思議な形と色彩なのでじっと見ていて飽きない。この花については別にノートを書いている。

 

定家葛の話 男と女の間には深くて暗い川がある

この頃通りの垣根で見かける花がある。なんだか品のある花で気になっていた。夕方近所の大きなスーパーにビールを買いに行って玄関に店を出している花屋さんの前を通ると「ハニーサックル」という名札が付いていた。懐かしい気持ちがした。ウィリー・ネルソンという髭を伸ばした歌手が主演した「忍冬の花のように」という映画を名画座で観たことがある。学生時代の話だ。その時に原題に出てくる花の名前が「忍冬、スイカズラ」とあったので不思議な読み方だと思った記憶がある。厳しい冬を耐え忍ぶ花という名前も越後の雪国育ちには魅力的だ。

カズラというのは「蔓科の植物の総称」と辞書にある。スイカズラと同じように垣根で頻繁に見かけるのがテイカカズラである。この花は「スタージャスミン」によく似ているが、花が黄色が少しかかったほうがテイカカズラで、白いのがスタージャスミンだ。テイカカズラの名前は鎌倉時代の歌人、藤原定家に由来するという伝承を読んだ。歌人として名高い定家は同じく歌人としても名高い式子内親王に恋をする。皇族である親王とは身分違いなので、定家は叶わぬ恋に苦しんだらしい。親王は皇女としての生き方に従い斎宮として神様に仕えて生涯を全うする。やがて定家も老いて生涯を終える。身分違いとはいえどちらも貴人なのでそれぞれが葬られた墓所はさほど遠くなかったらしい。やがて定家の墓から蔓草が伸びて、内親王の墓に向かい、やがては覆い尽くした。それからこの花が「定家葛」と呼ばれるようになったという言い伝えだ。

どちらも通りで見かける花だと思っていたが、友人と3人で高尾山に登ったら野生の花が咲いていた。親王の墓所まで蔓を伸ばすという話も良いが、森閑とした奥山に運ばれた定家葛の種が花を咲かせ、親王を思う気持ちのままに蔓を伸ばし続ける。その気持ちは永遠に報いられることもなく風に舞うという話の方がしっくりくると思う。定家葛の高尾山バージョンにあまりに感動したので、日曜日のランチの場所に向かいながら以上の話をつれあいに語り聞かせた。さぞや感動してくれるだろうと思ったのである。つれあいの反応は「なんだか男目線の話だわね。男が女をいくら好きになったからって、相手がそれをうれしく思うなんて限らないわよ。おまけに死んだ後までお墓に絡みついてくるなんて、ウザイわね」。男と女の間には深くて暗い川がある。野坂昭如さんの名唱だ。合掌。
忍冬

定家葛


 

2016年5月9日月曜日

イザベラ植物園のシャクナゲと井上靖の想い出

井上靖の小説を10代の頃に読んでとても好きだった。中学生の国語の教科書で読んだ「しろばんば」がしみじみとしている。高校生になってからも「夏草冬濤」、「北の海」など、この人の本を読み続けた。散文詩集も読んだ。「比良のシャクナゲ」もその頃読んだ記憶がある。同じ題名の短編小説もある。よほどこの花の情景が気に入ったのだろう。

1990年代から仕事で中央アジアやコーカサスの国を訪ねたり、駐在勤務をした時に井上靖に「再会」したのも懐かしい記憶だ。この人はシルクロードや西域を舞台にした散文詩や小説を数多く書いている。「崑崙の玉」(文春文庫)というキルギスや西域を舞台にした短編集を、それらの小説の舞台となった場所で読んでいると思うと味わい深いものがあった。

12年にわたって3つの途上国での駐在勤務を続けた後で、ロンドンの本部に戻った。50代の半ばになっていた。「石楠花」と書くこの花を実際に見たのはそれからだ。ロンドンの南西部にある広大なリッチモンド公園の中にイザベラ植物園という秘密の森みたいな場所がある。4月の末から5月の間だけつつじとシャクナゲの見事な開花を観ることができる。「大きなつつじが木の上の方に咲いている」と怪訝に思ったのがシャクナゲだった。

井上靖は医者の家に生まれた。お父さんがあちこちに転勤があったことと、兄弟が多くて大変だったことなどで、祖父の後妻であった人に預けられて育ったそうだ。「しろばんば」という自伝的な小説の世界だ。このお祖母さんは井上靖をとても可愛がり、短期の予定で預かった幼子の井上靖をその後も手離さなかったそうだ。自分が寂しいこともあっただろう。井上靖としては、自分だけが親と離れて育てられたことがわだかまりになったらしい。ありそうな話だ。わたし自身にも、わたしの周辺にも思い当たることがある。その昔は「家の都合」で似たようなことは頻繁に起きたらしい。

この人の小説も、散文詩のような静けさと孤独感が特徴だ。実の両親と育ててくれた血のつながっていないお祖母さんの間に挟まれる形で子供時代を過ごした結果として、この小説家が人間関係を煩わしく思うようになったとしても不思議ではない。そうした厭世的な感覚が、井上靖の作品には色濃い。この人は、やがて中国や、モンゴルや、西域作品を書くようになり、自分の生まれた土地を離れて漂泊する魂の物語を書き続けることになる。

「比良のシャクナゲ」は大学を出て、新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の作品だ。勤め人としての鬱屈や疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出すという詩だ。そういう思いを抱いてから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。比良の山々はこの詩人の心の中に存在していたのだろう。ぽっかりと心が明るくなるような詩だ。

比良のシャクナゲ
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"
の写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のよう
な湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高
く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおお
っていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆ
られ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろ
うことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤
独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと──
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に描く機会は私に多
くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の
群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、
その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひ
たすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下
界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なほ猥雑なくだ
らぬものに思えてくるのであった。

(「井上靖全詩集」井上靖 新潮文庫)