2014年10月25日土曜日

沢田研二の名曲「君をのせて」

沢田研二のソロデビュー曲「君をのせて」が発売されたのは1971年のことだ。あれから43年経つ。この人はソロになってからも派手なヒットを飛ばしているが、GSのタイガース時代からしみじみした名曲も多い。「僕のマリー」、「銀河のロマンス」、「青い鳥」などは今でも歌える。

「君をのせて」を作曲した宮川泰先生はご自分の作品のベストの一つと言っていたそうだ。低いイントロで始まってさびがかなり高音域になるこの曲は簡単な歌ではない。この歌をYoutubeで見つけて何度も聴いているうちにプロの歌手がこの曲のカバーに挑戦する映像がアップされているのを見つけた。最初の男性歌手は、高い自分の声で歌い始めた。さびになって「やっぱり無理やわ」と言って降板してしまう。これはプロの歌手としてはとても潔い。プロで歌うということは譜面通りにカバーするだけでは足りない。自分の声と表現で歌いきるのでなければ意味がないというプライドの問題だ。わたしはこのことをタシケントで友人の奥さんから教わった。点数の出るカラオケで皆が遊んでいた時だ。彼女はマニラ出身のプロの歌手だった。

さて男性歌手が降板した場面で、もう一人の女性の歌手がスタンバイしていた。「困ったなあ」と言う感じで歌い始めた途端にわたしはこの人の声が好きになった。名前を調べると「寺田恵子」という人だ。SHO-YAという女性ロックバンドのヴォーカルの人だそうだ。この人の歌う「君をのせて」を2か月くらい聴き続けた。ある日Youtubeが映らなくなった。「著作権についてクレームがつきました」という掲示が出ていた。残念だが仕方がない。

週末だし、眠る前にもう少し酒でも飲んで懐かしい歌を聴くのもいいなという気持ちの時間がやってくる。何気なく検索すると寺田版の「君をのせて」が別バージョンだが、またアップされていた。良い歌です

イワン・クラムスコイの絵「忘れえぬ女」

この絵のポスターを初めて見たのはタシケントに住んでいた頃だ。インパクトの強い謎めいた絵が気になった。それから何度か目にしたので有名な絵らしいことに気がついた。ふと思いついてGoogle検索を試みてみた。ロシアの有名な絵だとすれば、いくつかの美術館の名前を検索し、その美術館の代表作品の画像をチェックしてみれば出てくるかも知れない。サンクトペテルブルクのエルミタージュとロシア美術館を検索し、3番目にモスクワのトレチャコフ美術館を検索して辿りついた。19世紀後半に活躍したイワン・クラムスコイという画家の作品で、「アンナ・カレーニナ」をイメージしたものという見方がある絵だそうだ。

この絵はとても有名で日本でも公開されたことがあるそうだ。この絵のロシア語の原題は「見知らぬ女」となっているにも関わらず、日本の展覧会では「忘れえぬ女」というタイトルに変わっていた。誰のアイデアか知らないがなかなか良いセンスだ。岸恵子・佐田啓二主演の「君の名は」のように、まだその人の名前も境遇も知らない「見知らぬ人」に一目ぼれしてしまったのかも知れない。

あるいは事情があって別れた人と、時は流れて「見知らぬ人」として再会する可能性だってあるだろう。この場合に自分はその人を覚えているが、長い年月の後で自分自身の容貌やら境遇が変わったので、相手にとって自分が「見知らぬ人」になっているかも知れない。

中島みゆきの「時は流れて」という歌を思い出す。「あんたの恋の噂も いくつか聞いた そのたびに心は 安心していた あたし一人が変わってしまって あんたが何ひとつ 変わらずにいたら 時は何にも理由のない さみしい月日に なるような気がして」。


2014年10月18日土曜日

茶とティー キタイとチャイナ

お茶は中国が原産地で西側に伝わった。英語で陶磁器のことをチャイナともいうのはたくさんの茶碗が中国から輸入されたからだ。中国のお茶をロシアの「チャイ」のように「cha」で始まる音で発音するか、英語の「ティー」や仏語の「テ」のように「te」で始まる発音するかは、お茶がユーラシア大陸の東から西へと伝わる過程で陸路だったか、海路だったかで違うらしい。

中国の呼び名についても同様だ。中国最初の統一国家である秦の名は、かなり古い時点で海伝い、南回りで西へと伝わったそうだ。この結果「ch」もしくは「sh」音で始まる中国の名がインド系の「チーナ」、英語の「チャイナ」、仏語などの「シーナ」として広まった。。

一方で、10世紀の頃に北京の北方の草原にいたキタイ(契丹)と呼ばれる遊牧民が、次第に勢力を増して西へ西へとオアシス国家を展開していった。これがやがてモンゴルによる世界帝国の形成につながる。このキタイの名残りで「k」音で始まる中国の名が内陸ルートを通じて広くユーラシア全域に伝わったそうだ。露語では「キタイ」、英語でも「キャセイ」という呼び方がある。

近世の西ヨーロッパで中国と交流を持った人の多くはは船に乗って中国を海沿いに訪れた国の人々だ。この人たちは中国を「ch」ないし「sh」のつく名前で呼んだ。マルコ・ポーロなどシルクロードを通って交易した少数の人たちを除くと、内陸の中国のことを知る機会は限られていた。そのけっか西側の歴史では内陸の中央ユーラシアは何もない未開の土地だったことになる。

杉山正明という京都大学の先生は西側から見て未開の土地だった中央ユーラシアの遊牧民の世界がとても活き活きした面白い世界であったことを紹介している。「陸と海の巨大帝国 大モンゴルの世界」はとても面白い本だ。





2014年10月17日金曜日

流離うジプシーの歌

ロシアの映画監督ニキータ・ミハルコフは若い頃から俳優としても活躍している。独特の高い声の人だ。エリダル・リャザノフ監督「持参金のない娘」(1984)の中で歌っている流離うジプシーたちの歌がすばらしい。この歌はタシケントで買ったロシアのロマンス集のCDに入っている。

歌詞の和訳はタシケントでエレーナ先生の授業を取っていた頃のノートにだいぶ経ってから補足したものだ。こういう教材で授業をしてもらったが、細かい話になると「詩とか歌はそのまま訳しても意味わかんないのよ」と言って逃げられた。当時は細かい部分を追求する読解力もなかったので、いくつかの部分が未消化だった。良い曲なので繰り返しCDを聴いている時に気がついたこともある。長い時間をかけてできた訳詞が気に入っている。

むく毛の蜂が香り高いホップの花に向かい
薄青色のアオサギが葦原に向かうように
ジプシーの娘は愛する人を追いかける
生まれついての漂泊の魂のままに
ジプシーの星を追いかけて夕陽に向かう
そこでは船の帆が揺れている
娘の瞳は家を持たない哀しみに満ちて
紫紺の空を見る

流離う二人は自分たちの運命に従うだけ
向かうのが地獄だろうと、天上だろうとかまいはしない
怖れることもなく、ただ行くだけ
地の果てまでも、その先までも
ただジプシーの星を追いかけて

東の空の朝焼けに向かう
やさしい静かな薔薇色の波が
朝陽を浴びた砂の上に打ち寄せる
ただジプシーの星を追いかけて
南の果てには台風がうなる
激しい嵐が 神様の箒のように
大海のちりを清めている

   (刈谷田川の夢 訳)

2014年10月7日火曜日

パサショクの話 

ウズベク人でアルマーティで仕事をしているナザール君が出張でロンドンにやってきた。わが家で飲むことにした。ヴォトカを一瓶もってきてくれたのですぐ冷凍庫に入れた。こういう強い酒は、他の酒を飲んで一通り出来上がってから飲む。逆の順序だと他の酒の味がわからなくなる。さあそろそろ宴もお開きということになってお客様二人が帰ろうとするところを引き留めた。「パサショクを一杯やろうよ!」これはキルギスで経験したお別れの一杯のことだ。山岳地帯の仕事を終えた一日が終わりビシュケクの街に近ついた時に、車から降りて一杯ずつ飲んで旅の無事を感謝した記憶がある。それでヴォトカの瓶を開けようとしたら客人は開いていたスコッチに興味があるようだった。予定を変えて伝説のブレンド・モルト「スパイス・ツリー」を三人で楽しんだ。生でちびりとやる。美味い!最近M&Sでも手に入るようになった。

2014年10月1日水曜日

東洋人て誰のこと? オリエンタル・カレーの歌

オリエントというのは陽の昇る地域を示す言葉で東アジアのことだとずーと思っていた。子供の頃にテレビでオリエンタル・カレーのCMソングを流していた。「懐かしい、懐かしいこのリズム、エキゾチックなこの調べ、オリエンタルの。。。」  カレーは昔も今も大好きだ。海外出稼ぎを繰り返してきたが日本のカレールーの味は本場のものとも違って独特だし、こんなに美味しい肉野菜の煮込みは世界に誇れるものだ。

30歳を過ぎて初めての海外経験でアメリカの古都フィラデルフィアに住んだ。独立宣言や自由の鐘で有名な街だ。ここに大学院があって2年間お世話になった。若気の生意気さで「金勘定するよりは、何か世の中に立ちたい」と思っていたので、電力会社に務めていた。留学のチャンスが回ってきた時も当時の流行の「てっとり早く金持ちになる方法を学ぶビジネス・スクール」ではなく、公共政策を学びながら国際関係史の授業も取るつもりで「ガバメント・スクール」という分野を選んだ。今は少し違う見方だ。世の中を渡る道具と技を身に着けるのが先決で世の中の役に立つのはそれからの話かも知れない。

クラスはほとんどがアメリカ人で国務省の役人を目指す人が数人、弁護士になる前に行政をちょっとかじろうというタイプが数人、米国援助庁(USAID)とか開発分野を目指すタイプも数人、行財政を学んで公共セクターのコンサルタントをめざしたり、州政府の役人を目指す学生とかがいた。何故か留学生が3人いて韓国の外交官が二人、一人は自分である。アジア人同士ということで3人はなにかと寄り集まる仲良しだった。二人ともパークさんで、一人は言語学の博士課程で勉強する奥さんを追いかけて来た人で人当たりのよい外交官の卵。もう一人はジャーナリスト出身の外交官の変わり種で将来は政治学者になることを目指してこの学校を選んだ人だった。

3人で勉強の息抜きにビールを飲んで盛り上がった時に「この米人ばかりのクラスで3人が一緒になったのも何かの縁ではないか。これからも3オリエンタル・ボーイズとして結束しようぜ」と気勢をあげた。感じの良い方は「そうだ。そうだ」と同調してくれた。もう一人の学者志望の方はにやりとしながら「仲良しは良いが、おれたちはオリエンタルじゃないぞ」とのたまった。「何がいけない?」と聞くと「オリエントっていうのは欧州にとっての陽の昇る地域である中近東を示す言葉だ。おれたちはその最果てのファーイースタンだ」。

その時は、もっともな指摘だが、ビールで乾杯するのを邪魔することもないのにと思った。1991年に日本を離れてからヨーロッパや旧ソ連圏の国々で長く働いてきた。こちらに住んでいる人々の多くにとって陽の昇る土地に住むアジア人が近くにいようが、遠くにいようが異邦人であることに変わりはない。自分が異邦人として長く外国に住んでみるとそんな風にまとめてもらっては困るような気がしている。 フィラデルフィアの芝生の上での会話を時々思い出す。今なら違いを指摘してくれた友だちと美味いビールが飲めるような気がする。

遅咲きの野辺の花々 プーシキンの秋の詩

夏の初めに咲き誇るようだったフクシアやトケイソウが通りの生け垣でまだ咲いている。緑の中に幽かに浮かんでいるような花々の風情を歌ったプーシキンの詩がある。

 遅咲きの野辺の花々は
 あでやかな初花よりも愛おしい
 過ぎた夢の物悲しさを
 より生き生きと呼び覚ますから
 そんなふうに別れの記憶が
 楽しい出会いよりも心に残ることもある
       (刈谷田川の夢 訳)




葡萄の房は秋のよろこび プーシキンの詩

19世紀の前半に活躍してロシア詩壇の黄金時代を築いたアレクサンドル・プーシキンという詩人がいる。江戸時代の文政の頃だ。この人は山あいのブドウについて歌っている。秋になると思い出す。

またたく間に春が過ぎて
しぼんだ薔薇を惜しむことはない
山のふもとの木のつるに
豊かに実った葡萄の房も愛らしい
それは草深いわが谷の美であり
黄金色に輝く秋のよろこびである
ほっそりと透き通るようで
乙女の指のように美しい

(刈谷田川の夢 訳)


ロシアのアラ・プガチョヴァ 日本で言えば美空ひばり?

加藤登紀子さんが歌った「百万本のバラ」はロシアのアラ・プガチョヴァという人が歌ったのがオリジナルだ。国民的な人気と歌唱力で「ロシアの美空ひばり」という言い方もされている。多くの歌があって玉石混交になるのは人気歌手の宿命だが、すばらしい歌がたくさんある。「二本の蝋燭」という歌を訳してみた。検索して聴いてみてもらいたい名曲だ。

静かな夜に蝋燭を灯して
お互いに語り合おうよ
少しも変わってないね
前よりきれいになったのと
瞳の中の哀しみをたたえている他には

可笑しかったり悲しかったり
たくさんの物語を
これまで生きてきた
これからも多くの物語を
生きていくだろう

二本の蝋燭は朝が来るまで輝いて
この世界に自分たちがいた跡を残す
暗い夜の二本の蝋燭は
孤独な人々すべてに光を与えるだろう

二本の蝋燭は朝が来るまで輝き続ける
独りぼっちているのなら
その火が消えないうちに
君のその手を光に差し伸べてくれ

(刈谷田川の夢 訳)

ブルジェ湖の夏 ネルソン・フレイレのCD

2013年と2015年の夏にフランスのブルジェ湖を訪れた。スイス国境に近く、南北が18km、東西が3kmあって国際湖のレマン湖を除くとフランス最大の国内湖だ。サイクリングとモーターボートの他に、ウェイク・ボード(水上スノーボード)に挑戦した。ディナーの後のレストランでバンドの演奏が始まるとアメリカの60-70年代の曲に合わせて踊る人たちでにぎやかだった。季節が終わると静まりかえるそうだ。泊めてくれたのはかつての同僚オリビエだ。この人は今もロンドンの別の職場で働いているが、おじいさんが亡くなった時に、故郷の湖畔の家を買った。子供の頃の思い出が詰まった家なので人手に渡したくなかったらしい。オリビエはロンドンで4日働き、週末を含む3日をフランスの湖の家で過ごしている。オリビエのパートナーのラズ君はブラジル系のフランス人である。この湖畔の家を管理し、二匹の大型犬の世話をしていた。一匹は最近寿命が尽きた。

 湖を望むテラスで夕食になった。蝋燭をつけてワインを飲んだ。妻と4人でいろいろと小さい時の思い出話をした。ラズ君がまだ子供の頃にお父さんが亡くなった。お母さんはその遺産で彼をパリの寄宿学校に入れたのだが、彼の性に合わなかったようだ。「お母さんはどんな人だったの」と聞くと、「ピアノの先生だったよ。そう言えば小さい時に教えた生徒で有名になった人がいるよ」と言う。「そのピアニストになった人はバス旅行で両親が死んでしまい、一人だけ残されて大変だったんだよ。ぼくのお母さんがそれでいろいろ面倒見てあげたんだ」。この話に出てきたピアニストがネルソン・フレイレという人だ。ロンドンのCD店でドゥビッシーの曲の入っているCDを見つけた。この湖のことを思い出したいときにはこのCDを聴く。