2017年1月1日日曜日

水羊羹みたいな形をした地球について考えてみたことがありますか?

世の中に大事なことはいろいろある。経済の発展は大事だ。エネルギーの確保は大事だ。生活の便利さも大事だ。どれも人々の生活に不可欠なものだからだ。ただし、ものには順序と優先順位があるはずだ。いまだに2011年の福島の原発事故で困っている人たちの問題が存在し、それが公害として認識されているなら、それらの優先順位を繰り上げて考える必要があるのは当たり前のことだろう。わたしは自然回帰論者ではないし、多数決で人々が選ぶなら原発もあり得ると考えているが、現段階で、2011年の事故で被災された人々への対応も含めて、議論されるべきことがらの優先順位が正しく設定されていないと考えているので、現状での原発再開には反対だ。

原発の再稼働というと、何か政治的な議論かと構えてしまうことが多いが、「2011年に福島原発で起きたことが自分の故郷で起きるだろうかどうか」と考えてみれば単純な話だと思う。わたしは新潟県長岡市生まれである。長岡市の隣には柏崎市がある。友だちも親戚もたくさんいる。自分の故郷で原発事故の不安にさらされながら生きていきたいと思う人はいるのだろうか?わたしは嫌だ。問題はそれが「誰かの故郷」に限定される話なのかどうかだ。

ロンドンで勤務していた時に、英国新潟県人会のテーブルでこの話になった。わたしが「少なくとも長岡や柏崎で原発を再開してほしくない」という話をすると、同郷のI塚大先輩が別の見方から何故、原発の再開を望まないかの話をしてくれた。われわれ6人が着席していた丸いテーブルが直径2mくらいあった。「これを地球とみなした場合、地殻の厚さはどのくらいあるのだろうか?」というのが先輩の質問だった。あてずっぽうで1cm位かなと思った。調べてみると地球の直径の長さは12756.3 km で、地殻の厚さの平均が35kmだそうだ。これを2mのテーブルに当てはめると地殻はわずか 5mm しかないことになる。地殻の下にはマントルがある。これは地球の中心部ほどではないにしても熱をもって、対流している部分だ。この地殻の上に乗っかっている日本列島で、長岡がどうか、福島がどうか、東京がどうかという個別の場所の議論をする意味があるだろうかというのが先輩の指摘だった。目からうろこのように感じた。

もちろんエネルギーが無くなって、明日の生活にも困るというのであれば、ある程度のリスクを覚悟で暮らしていかざるを得ない。LNGや石油の値段が高騰して日本経済が破綻するというのなら、腹をくくって原発事故のリスクを抱えながら生きていかなければならない時代もやがて来るかも知れない。ただそこまで追い詰められた議論をする前に、省エネの在り方や、再生エネルギーの在り方を考えて見る価値はある。2mのテーブルを眺めながら地殻の厚さが5mmしかないことを考えたら、物の考え方は変わるはずだ。地球が水羊羹と大して変わらない形でできていることをもっと真剣に考える必要はありそうだ。2011年以前の日本のエネルギー業界には「常識」があった。電源を継続的に増やしていかないと夏場の大停電が起きるという常識だった。あれから6年経った。まだ大停電は起きていない。こういう話にはすべて「前提」があるので、電力会社や政府がウソを言ったわけではない。ただそういう前提つきの話を原点に戻って見直す必要がある。


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