2016年9月12日月曜日

ミャンマー植林の旅 「ビルマの竪琴」の空想の舞台を追って

この夏の終わりにミャンマーへ旅をした。若い頃にバックパックを背負って欧州も、インド・スリランカ・ネパールもペルー・ボリビア・メキシコも旅しているが、還暦が近い歳になると一人旅は気が重い。知り合いの方が主催されているNGOの植林ツアーのことを知り、記録写真係を志願して連れて行ってもらうことにした。植林ツアーの目的地は古都バガンだった。日本から行く場合は首都ヤンゴン経由となる。ヤンゴンは暑くて湿気が多く大変だったが大きな寺院や涅槃像で有名な寺院やアウンサン将軍の記念館など見どころもたくさんある。ヤンゴンの空港に着くと現地側パートナーとしてこの旅に参加してくれた団体のメンバーたちが待っていてくれた。到着時間が遅めだったので宿にチェックインする前に、空港からの途中でレストランで夕食となった。

この席で同席したのがADさんだった。話が面白い人で旅の間ずーとお世話になって楽しかった。夕食をしながらこの国と植林ツアーについて説明を受けた後で「質問はありますか?」ということだった。「「ビルマの竪琴」という映画を古いのも、新しいのも観たことがありますが、この映画の原作になった本のことを知っていますか?」 と質問してみた。「こちらでも翻訳されている素晴らしい本です。でも書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という返事を聞いてびっくりした。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反だという点だ。物語の中では日本兵である水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。その時に戒律違反の楽器を持ち歩き、さらに演奏もするということであれば目立ち過ぎて説得力を欠くことになる。

僧侶と竪琴の関係以外にもう一つ気になったのは、牛についての記述だ。文庫版の165頁に「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」という記述がある。わたしが今回の旅で牛車を引く牛たちを見かけた時に同行した人たちに「あれは水牛でしょうか?」と聞いてみると「違うよ。牛だよ。」と教えられた。帰国して調べてみるとコブ牛というものらしい。なるほど首を前に垂らしたその付け根のあたりが骨の突起のような形でこぶ状に見える。よく見かけたこのコブ牛の角はさほど大きくない。水牛ということになると角も体ももう少し大きいようだ。

市川崑監督の映画は安井昌二主演の1956年作品も、中井貴一主演の1985年作品も観たことがあるが原作を読んだことがなかった。バガンから帰国して、書店で新潮文庫版を買った。著者あとがきによるとこの作品は昭和21年から23年まで童話雑誌に子供向けの物語として連載されている。戦後間もない話だ。23年の秋に中央公論社から単行本として出版され毎日出版文化賞、25年に文部大臣賞を受賞した。文庫版の後ろの「ビルマの竪琴ができるまで」という著者の文章が面白い。ここに「一度もビルマに行ったことがない」と書かれている。終戦当時すでに40代の半ばだった著者は軍隊生活もほとんど経験していないそうだ。

旧制一高の教授として多くの学徒を戦地に送り出したことで、鎮魂の物語を書きたいと思ったことが書かれていた。著者の執筆の目的は徴兵されて異国で野仏となった人々の慰霊にあるので場所は何処でも良かったわけだ。最初は中国南方のどこかの城市に籠城する設定だったが、敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面を考えているうちに、スコットランド民謡やアイルランド民謡を登場させることを思いつく。このため旧英植民地だったビルマが舞台になったと説明されている。

空想物語であり、童話として出版されたはずのこの本を読んでみると、著者が行ったこともない国が舞台となっているにもかかわらず、リアルな印象がある。物語の読後感は深い。そういうわけで、この夏の終わりに自分で撮影したミャンマーの風景をしみじみと眺めている。

10頁「ここらの森は大きなチークの木です。そこには猿が跳ねているのも見えます。。。」


15頁「赤と黄の模様のあるルーンジという腰巻のようなものをすると、どう見ても生まれながらのビルマ人でした。」
 

24頁「村人たちはわれわれの歌を、まるで儀式の時のようにまじめにきいていました。」
   

43頁「まったくの竹の柱に萱の屋根です。床が高く、風遠しよくつくってあるので、そう湿気ません。」
  

47頁「椰子の実が重要な食糧であることは有名です。」


57頁「ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。」
 

111頁「寝姿の仏像も多く、中にはいく十メートルもある仏様が上半身をなかば起こしているのもあります。」


165頁「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」
 

171頁「人間は一度はかならず死ぬものだし、死ぬことによってこの世の煩悩を脱れて救われるのだ、人間がそこからきた本源にかえるのだ、と信じています。」
 合掌。
 

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