2015年5月31日日曜日

蜷川カンパニーロンドン公演2015 「ハムレット」と「海辺のカフカ」は凄かった

蜷川幸雄演出による二つの劇がロンドンのバービカン劇場で上演された。「ハムレット」と「海辺のカフカ」だ。先々月に気がついてチケットを買おうとしたら「海辺のカフカ」は売り切れだった。宮沢りえが「海辺のカフカ」のヒロインを演じたので無理もない。先週の土曜日に「ハムレット」を観に行って、幕間に友人のSさんと一緒になった。「翌週の「海辺のカフカ」も観たいが、チケットが売り切れです」という話をすると、その場でSさんがYさんに電話してくださった。チケット入手済みのYさんは仕事が入り、代わりに観に行く人を探していたらしい。残念ながらそのチケットはすでに他の方に渡った後だったが、この時のことがきっかけで、上演当日になって別のチケットが入手できた。友だちの輪というのはありがたい。劇場に早めについてカフェで軽く食べて、外の空気を吸っていると遠くの方で藤原竜也が煙草を吸っているのが見えた。

藤原竜也が主役を演じた「ハムレット」は23日土曜日のマチネを観た。「蜷川版ハムレット」は17年前の1998年に真田広之、松たか子の舞台をロンドンで観ている。この時の母親役が加賀まりこだった。この役を今回は鳳蘭が演じた。当時、ロンドンに在住だった野田秀樹が前の列に座っていたことを記憶している。藤原竜也は白石加代子との共演での1997年の「身毒丸」を観ているので、こちらも懐かしい。いずれも1999年から途上国暮らしを始めるまでロンドンに住んでいた頃の話だ。

今回のバービカン劇場の舞台では、お雛様のセットを使った劇中劇の部分が凄かった。白日夢を観ているような強烈な印象が残った。クローディアスと父王の亡霊の二役を演じた平幹二郎も凄い。オフィーリアを演じた満島ひかりは前半の部分ではほとんど印象がないが、恋人であるハムレットの変貌に心を痛め、ついには父を殺されて狂ってしまうオフィーリアの場面が連続した辺りからとても印象的だった。全体を通じて藤原竜也の存在感が光っている舞台だった。

それから奇跡が起きた。2か月近く前から、なんとか入手しようと努力しても手に入らなかった「海辺のカフカ」のチケットが上演の数時間前になって入手できた。この蜷川版「海辺のカフカ」には感動した。まず舞台装置がすごい。高松の図書館がメインの場所ということもあってか、全体を通じてガラスの書棚のようなミニ・ステージが用意され、役者の皆さんはその中から登場し、飛び出し、演技する。このたくさんあるミニ・ステージの下に車輪がついていて、人力で動かす黒子の皆さんが大変だ。図書館というよりは博物館のガラスの箱だ。日本が誇る世界のニナガワが世界のムラカミの原作から主要場面を切り取って、臨時の大英博物館の世界を作り出したような印象を受けた。高松に向かうトラックすらこのガラスの箱に入っているのでびっくりした。さらに凄いのはヒロインの若い日と現在の佐伯さんを演じた宮沢りえがやはりガラスの箱につめられて、舞台の冒頭からこの劇の空間を彷徨うことだ。これは白日夢の世界だ。ちなみに私の席はほとんど左端だが、舞台から4列目だった。ガラスの箱の中から一点を凝視する宮沢りえと目が合うような錯覚を覚えた。

蜷川版「海辺のカフカ」の舞台は、村上春樹原作の物語を忠実に追いながら、最後の部分で原作にないある決定的な結論を導いている。この原作本を読んだ時に書いた自分のノートを読み返してみた。舞台を観終わって、自分が違和感を持った理由が確認できた。村上春樹の原作はギリシャ悲劇「オイディプス王」の物語を下敷きにはしているが、それが「幻想」の物語であり、「夢」についての物語であることを強調することで、「父を殺して、その妃を妻にする」という悲劇の核心については、「そうかも知れないが、そうでないかも知れない」 不可知の物語としている。他方で、蜷川版「海辺のカフカ」はこの点について明らかな結論を出している。2013年に「オイディプス王」 の舞台の演出もしている蜷川氏としては、この悲劇の根幹部分を曖昧にすることはしたくないのだろう。つまりこの上演はムラカミ・ワールドを舞台上に再現するのが目的ではなく、蜷川幸雄による「海辺のカフカ」の解釈そのものを舞台化したものというべきだ。

この舞台のための原作の解釈はとても緻密だ。原作を読んだ時に「源氏物語」、「雨月物語」が引用され、この作品が「夢」と「想い」についての物語であることを強く感じた。視覚的な効果とキャスティングの妙により、この点が見事に表現された舞台になっている。ナチによる数百万人のユダヤ人のホロコーストについて、ヒトラーの意向を実行した高官としての責任が問われたアイヒマン裁判のエピソードも登場する。「夢の責任」の部分についてのこの引用が効果的に舞台上に再現されている。口惜しいとは思ったにしても殺したいとまでは意識しないまま生霊となった六条の御息所の罪は問われるべきなのか? ホロコーストにつながったヒトラーの呪詛を、明確な思考を持たずに実行したアイヒマンの罪は問われるべきなのか? 夢とも現実ともつかない「半世界」とも言うべき空間でナカタという「不完全な死者」が父親を殺す。その不思議な現象を引き起こしたのがカフカ少年の混沌とした憎悪だったとしたら、その罪は問われるべきなのか?

もう一つFB友だちと舞台の感想を交換していて気がついたことがある。トラックの運転手でナカタさんを高松まで連れて行った星野君が登場する場面の役割についてだ。昔、池袋パルコに唐十郎の芝居を観に行ったときの猥雑さとエネルギーとエログロさを混ぜ込んだ雰囲気を思い出した。状況劇場の舞台を新宿花園神社のテントで観た時には感じなかったが、パルコ劇場では感じたような周囲の世界との違和感だ。今回の蜷川版「海辺のカフカ」で宮沢りえを起用し、芸術の香り高いバービカン劇場で突然唐十郎風の場面が出てきた理由について考えてみた。これはおそらくヒロインの宮沢りえとカフカ少年の演じた幻想的な夜の場面が「きれい」すぎることと関係していそうだ。「超現実の幻想美の世界」と「猥雑でエネルギッシュな世界」をほぼ前後して登場させることで、まるで3Dメガネをかけた観客の頭のなかで映像が立体化されるような不思議な効果を生んでいる。
 






0 件のコメント:

コメントを投稿