2016年11月8日火曜日

池澤夏樹 「植民地の叛乱」の構図

池澤夏樹氏の小説は「スティル・ライフ」で芥川賞受賞の頃から時折り読ませていただいた。去年くらいから再び興味を持っているのは「母なる自然のおっぱい」というエッセイ集の中の文章に出て来る桃太郎論を政治家が取り上げたことで、新聞紙上で同氏の返信があったことがきっかけだった。桃太郎話を明治以降の近代化の文脈で取り上げた文章だ。実はこれは同氏ご自身が、文庫本のあとがきで解説されているようにオリジナルではなく、福沢翁などを含む明治以降の知識人が何回か取り上げてきたテーマのようだ。数年前に同趣旨のテーマが広告賞を受賞して話題になったこともまだ記憶に新しい。
 
A新聞の夕刊で池澤氏が、同じ文脈で最近の沖縄問題に関して「何故、土人という言葉が飛び出すのか?」という問題を提起している。この文章の結びで沖縄と原発問題の共通性が指摘されていた。わたしの故郷に近い柏崎・刈羽についても言及されているので考え込んでしまった。学校で法律を学んだ時には「個人の幸福追求の権利」は「公共の福祉」によって制限されることがあり得ると教わった。自分の選んだ立場を理論つけしようとすれば、どちらも可能である。「多数説」が時代によって左右に振れながら登場してくる理由だろう。
 
明快な答えを見つけにくい問いについての論争でこれまで「公共の福祉」論がやや優勢だった気がするのは、右肩上がりで経済が成長し、世の中が「発展」していた時代には、「公共の福祉を優先させれば、全体として皆が幸せになる」という考え方が共有されやすかったからだろう。高度成長の時代が終わってしばらく経ち、社会の方向性についての見方も多様化した現在ではどうしても地域格差の問題に焦点が当たらざるを得ない。その意味で池澤氏の論説は極めて現代的だ。添付の記事は登録すれば無料で読める。
 
エネルギー論としての原発については様々な意見があるだろうが、わたしの立場は単純だ。故郷である新潟県がエネルギー消費地域の植民地として犠牲になることには反対だ。夕刊の記事を読んでそんな思いを強くした。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿