2014年9月30日火曜日

開高健の足跡を追いかけて ロンドンとスリランカと銀山湖

東京で会社に勤めていた頃に開高健の「夏の闇」を先輩に勧められた。それからずっとこの作家の小説と随筆を読み続けてきた。1972年に書かれた「夏の闇」は傑作だ。これだけのものを書いてしまうと続編を書くのは難しいだろう。開高さんが亡くなる少し前にロンドンを再訪したTV番組のビデオを今でも持っている。ロンドンの街を歩き、若い頃に食べた思い出のフィッシュ&チップスを食べている。「こうしてもう一度食べてみると、ぱさぱさしてそれほど美味くない。多くのものを経験してしまったせいだ。知の哀しみである」と述懐している。

若い時は活動的で空腹だっただろうし、海外渡航が容易ではなかった時代に外国を訪れて大きな興奮とともに食べたものは美味しかったはずだ。この人はその後もいろいろなものを追いかけて南米やらアラスカやらモンゴルへと出かけた。その先に待つものが毒だろうが幻滅だろうが夢を見続け、漂い続けずにはいられない。そんな風に生きて死んで行った人だ。漂泊と呻吟を続けたこの作家は1989年12月に病没する前の数年間に「耳の物語」(1987年)、「珠玉」(1990年)などの光り輝く作品を発表している。「生物としての静物」(1984年)、「小説家のメニュー」(1990年)など随筆の結晶度もすごい。

神奈川県茅ヶ崎市の旧開高健邸は現在は記念館になっている。湘南の海が近い場所にある。ここで深夜に原稿を書き、行き詰まると世界を旅して気分転換を試みたようだ。頑固な肩こりに苦しんだので机を離れて旅をすることが必要だったらしい。記念館で写真アルバムと「夏の闇」の原稿コピーがそれぞれ箱に入ったものを買った。今ではパソコン入力で文章を書く人が多いが、昔の作家は立派な万年筆で書いている。座り続けての作業は今より大変だったはずだ。

遺作となった「珠玉」は3つの物語で構成されている。冒頭の「掌の中の海」はロンドンのパブの話からブラジルのアクアマリンの話に続く。二つ目の「玩物喪志」は渋谷の中華料理屋のガーネットから、アラスカの鮭、パリの酒場、スリランカのルビー、サイゴンの市場へとつながる。最後の「一滴の光」ではタージ・マハルの話から新潟の造り酒屋を経て一本のアケビにつながる。死期を予感した作家が走馬灯のようにめぐる記憶を手探りしている文章の透明感が高い。開高健と新潟の関わりは深い。「夏の闇」を書くために逗留した村杉小屋のある銀山湖が新潟県と福島県の境にある奥只見湖の別名だとは知らなかった。奥只見ダムには小学生の頃に行ったことがある。

わたしもこの人のように知らない世界を見てみたいと思った。ロンドンのフィッシュ&チップスを新聞紙に包んで食べたり、おがくずの匂いのするパブで本場のモルトを飲んでみたいと思った。パリのカフェでワインやアニスの酒を飲んでみたいと思った。1987年にコロンボで働いていたつれあいを訪ねてスリランカを訪れた。1991年から2015年に帰国するまで海外で仕事をするようになったのも開高さんの影響だと思っている。





1 件のコメント:

  1. 知的興味が『つれあい』につながり、『知』が哀しみにつながる♪♪♪共感!

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