2014年9月23日火曜日

ラフカディオ・ハーンと伊藤比呂美 言葉がゆらぐ時

FBでラフカディオ・ハーンと奥さんのセツさんをテーマにした舞台の話を読んだ。伊藤比呂美さんの「わたしはあんじゅひめ子である」という詩集の中に「ナシテ・モーネン」という詩がある。英国ニュースダイジェストの1996年11月14日号に伊藤さんのインタビュー記事が載っている。「小泉セツの体験はまさにわたしそのものだと思ったんですね。現実はともかく、言語的に」。この記事は現在も保存している。当時高橋睦郎さんと二人でロンドンでの朗読会のために訪英した伊藤さんのインタビューの現場にたまたま立ち会う機会があった。

伊藤さんには1980年の東京の朗読会でも会ったことがある。伊藤さんは竹早高校の出身だ。昔働いていた会社の越谷営業所の同僚でH君という人がいた。ある時彼の家に遊びに行き夜が更けてもビールを飲んで盛り上がっていた。昔話になって「そう言えば高校のクラスに面白い人がいたなあ」とH君が言い出した。「えー、その人ってすごく注目されてる人だよね」と言うと、すっかり酔ってご機嫌のH君は「興味ある?仲良しだから電話してやるよ」というとんでもない話になった。伊藤さんは夜遅く酔っ払いが電話をかけてきたので呆れたと思うが、こちらは二人とも酔っぱらっていたので楽しかった。電話でご挨拶させていただいた後で、朗読会にも出かけた。その頃はこの人の書いたものをフォローするのが楽しかった。

1996年の話に戻る。ファックスのファン・レターを書いたら、返事をもらった。「宮沢賢治に中原中也をかけたような名前も、詩人としてはどうもなつかしくて。。。」 この頃から渡米の準備をされていたそうだが、アメリカに出発されたのは年明けの2月になってからだ。おかげでもう一度手紙のやりとりができた。この人はポーランドで初めての海外体験をした時に「自分のニホン語が英語やポーランド語の中でゆらいでいくのがとても気持ちよかった」とインタビューの中で述べている。もともと日本語の達人で中原中也を愛唱して若くして詩壇に登場したこの詩人は、その後の外国語体験の中で自分の言葉を見つめ直していったのだと思う。わたしは彼女の初期の詩集がとても好きだ。

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