1999年にタシケントに住むことになった時の最初の大家さんはタタール人だった。ウズベキスタンとキルギスに通算で9年ほど駐在勤務だったので、それからもたくさんのタタール系の人たちに出会った。1999年にデビュー曲の「冬の夢」で一躍人気者になったアルスーという女性歌手もタタールの人だ。タシケントに住むようになった頃、レストランでもタクシーのラジオでもこの曲が流れていた。この人はその後もヒットを飛ばしたが、この曲が一番だ。チョルパン・ハマートヴァという女優さんは2005年のロシア版のドラマ「ドクトル・ジバゴ」でヒロインのラーラ役を演じた。この人もタタール人だ。このタタール人と呼ばれるムスリムの皆さんはどこかしら愛嬌があって、懐かしい感じがする。アジア系の顔をした人もいれば、もっと欧州系の顔をした人もいる。長い歴史の中でユーラシア大陸の各地に分散しているのでいろいろらしい。
中央アジアに多くのタタール人が住んでいることについてはスターリン時代からの歴史がある。タタール人の土地という意味を持つタタルスタン共和国はロシア連邦を構成する国の一つだ。カザンを首都とするこの国の人口380万人の5割強をタタール人が占めている。1991年に旧ソ連から独立した中央アジア諸国にも100万人近いタタール系の人々が住んでいる。第二次大戦中にクリミア半島に住んでいたタタール人は対独協力の嫌疑を理由に中央アジアに強制移住させられた。この時移住させられたクリミア・タタール人は19万人と言われ、そのうち15万人がウズベキスタンに送られている。極東に住んでいた朝鮮半島出身の人たちは対日協力の嫌疑でやはり中央アジアに移住させられている。
タタールという地名には昔から興味があった。安西冬衛という人の「春」という一行詩を学校の教科書で習ったのがきっかけだ。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」。韃靼はタタールの漢字による表記である。タタールがヴォルガ川流域とかクリミア半島のタタール人を示すようになったのは近世の話で、モンゴルが欧州まで攻めて行った時代には、モンゴルの勢力圏の人々はまとめてタタールと呼ばれたらしい。それならユーラシア大陸の東端と樺太の間にある海峡が韃靼海峡と呼ばれたことにも納得がいく。この海峡は日本では間宮林蔵にちなんで間宮海峡と呼ばれていた。
アレクサンドル・ボロディンというロシア人の作曲家が「韃靼人(タタール人)の踊り」という曲を作ったと教わったのでロンドンのCD専門店に出かけた。この人は「中央アジアの草原にて」という曲も作っている。ところが目指すCDは見つからない。「イーゴリ公」という言葉が記憶に在ったので、それを手掛かりにして「Polovtsian Dances」 という曲の入ったCDを買ってみた。家に帰って調べると同じ曲のことだった。原題の「ポロヴェツ人の踊り」が日本に紹介される過程で韃靼人に変わったらしい。この場合の韃靼はタタールが極めて広い地域を意味した時代の名残りだ。
帝国主義の時代にヨーロッパを世界の中心だと思っていた人たちにとってはポロヴェツ人だろうが韃靼人だろうがモンゴル人だろうが「ユーラシアの東方に住んでいる未知の人たち」には変わりがなかったのだろう。世界の各地には様々な人々がいてそれぞれの伝統とプライドを持って生きている。それをひとからげにする人たちは困ったものだ。
中央アジアに多くのタタール人が住んでいることについてはスターリン時代からの歴史がある。タタール人の土地という意味を持つタタルスタン共和国はロシア連邦を構成する国の一つだ。カザンを首都とするこの国の人口380万人の5割強をタタール人が占めている。1991年に旧ソ連から独立した中央アジア諸国にも100万人近いタタール系の人々が住んでいる。第二次大戦中にクリミア半島に住んでいたタタール人は対独協力の嫌疑を理由に中央アジアに強制移住させられた。この時移住させられたクリミア・タタール人は19万人と言われ、そのうち15万人がウズベキスタンに送られている。極東に住んでいた朝鮮半島出身の人たちは対日協力の嫌疑でやはり中央アジアに移住させられている。
タタールという地名には昔から興味があった。安西冬衛という人の「春」という一行詩を学校の教科書で習ったのがきっかけだ。「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」。韃靼はタタールの漢字による表記である。タタールがヴォルガ川流域とかクリミア半島のタタール人を示すようになったのは近世の話で、モンゴルが欧州まで攻めて行った時代には、モンゴルの勢力圏の人々はまとめてタタールと呼ばれたらしい。それならユーラシア大陸の東端と樺太の間にある海峡が韃靼海峡と呼ばれたことにも納得がいく。この海峡は日本では間宮林蔵にちなんで間宮海峡と呼ばれていた。
アレクサンドル・ボロディンというロシア人の作曲家が「韃靼人(タタール人)の踊り」という曲を作ったと教わったのでロンドンのCD専門店に出かけた。この人は「中央アジアの草原にて」という曲も作っている。ところが目指すCDは見つからない。「イーゴリ公」という言葉が記憶に在ったので、それを手掛かりにして「Polovtsian Dances」 という曲の入ったCDを買ってみた。家に帰って調べると同じ曲のことだった。原題の「ポロヴェツ人の踊り」が日本に紹介される過程で韃靼人に変わったらしい。この場合の韃靼はタタールが極めて広い地域を意味した時代の名残りだ。
帝国主義の時代にヨーロッパを世界の中心だと思っていた人たちにとってはポロヴェツ人だろうが韃靼人だろうがモンゴル人だろうが「ユーラシアの東方に住んでいる未知の人たち」には変わりがなかったのだろう。世界の各地には様々な人々がいてそれぞれの伝統とプライドを持って生きている。それをひとからげにする人たちは困ったものだ。
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