2015年2月1日日曜日

STAP騒動

一月に日本にいる間に予定外で熱心にフォローしたのはSTAP細胞をめぐる一連の調査レポート。毎日の須田桃子記者による「捏造の科学者」は、綿密な取材により入手したオリジナル情報に基つき、いくつかの点を明確にしている。笹井教授が自身の役割を論文のライティングに限定して、内容については立ち入った精査をしていないことを認めていたこと。キメラマウス実験を担当した若山教授も自身の役割を当該実験に限定しており、結果として研究全体について小保方氏の研究を精査し、指導する人が不在だったこと等々。この「全体としての監督者の不在」について笹井教授の監督責任が追及され、同教授の自死という不幸な事態に至った。須田記者は一連の不正が果たしてこの直接に研究に携わった人々に限定されるものだろうかという疑問を提起し、理研の組織全体の問題として疑惑の全容が解明されるべきだと主張している。

日経サイエンス3月号「STAPの全貌」(詫摩雅子氏・吉田彩氏)では「STAP細胞は最初からなかった」ことが理研の遠藤上級研究員の検証によって明らかにされたことが報告されている。ES細胞とは何だったのか?ノーベル賞を受賞した山中教授のiPS細胞のどこが画期的だったのか?STAP細胞とはどういう仮説だったなどいくつかの点を理解しないと、この日経サイエンスの記事の内容を理解するのは難しい。

一連の報道を読んで不思議に感じるのは、優れた業績を持つ人々が何故このような事態に巻き込まれてしまったのかという点に尽きる。数学者の藤原正彦氏が週刊新潮のコラム「管見妄語」でこの点について「何故発表前に共著者の一人として再現性確認の手続きを取らなかったのか」の理由として、学問の世界に市場原理が導入されて、研究者の身分も研究費も激しい競争にさらされることになったことを示唆している。

「publish or perish」というフレーズを思い出した。わたしがアメリカの大学院に留学していた時のポスターで見かけた文句だ。一連の事件で必ずしも関係者それぞれに100%の悪意があったとは考えにくいが、相互の責任の持ち合いと希釈の中で、結果として大きなギャンブルがなされた可能性を感じる。画期的な論文を発表しなければ、センターの未来も、若手研究者の将来もなかったのだとすればギャンブルに出るインセンティブはありそうだ。そうした事態が恒常的に発生していたとすれば組織としてはいちいちのケースを追及し、処罰するよりは、例え信憑性に問題のある論文でも、再現されずにやがて自然消滅することを待つほうが楽だったのは言うまでもないだろう。

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