2025年3月17日月曜日

住んでいる街を撮る

退職して鎌倉に住むようになり、写真を撮って暮らしている。撮って、本を読み、教室に通い、写真展を訪れる。「写真は外の世界を映す窓なのか?撮影者の内面を映す鏡なのか?」という問いが多くの本に出てくる。

 
19世紀にJ.W. Waterhouseという英国の画家が描いた「シャロットの女」という絵がある。高い塔に幽閉されタペストリーを織っている女性には呪いがかかっているので窓の外の世界を直接見たら死んでしまう。鏡越しに眺めることはできるが、それは鏡に映る世界の影にすぎない。実像ではないので彼女自身の内面を反映することにもなる。小さな視野に限定される不便な鏡だけれど、それなしには窓の外の様子を知り得ない。写真をめぐる議論と共通しているような気がする。
 
終の棲家として越してきた鎌倉を写している自分にとってカメラは外界を眺める道具である。たまには遠い国まで出かけてみるが、どこだろうと同じかも知れない。郷里を離れて以来、ほぼ3年の頻度で引っ越しを繰り返したので、かつて住んだ様々な土地はもう幻のように思われる。それでは現在住んでいる鎌倉は自分にとって現実の世界だろうか。レンズ越しに覗き見ながら虚実のいずれかと考える作業だ。

2025年2月27日木曜日

写真と音楽 中藤毅彦写真集「Down on the Street」ギャラリートークから

ジェームズ・ボールドウィン(James Baldwin) が1961年の暮れに書き上げて、翌年に発刊された "Another Country” は初めて読み通す体験をしたペーパーバックなのでこだわりがある。1985年頃のことだった。このペーパーバック版との出会いについては「好きな本」のブログに書いているので省略する。日本では1969年に集英社の「現代の世界文学」シリーズの1冊として野崎孝訳「もう一つの国」という題名で刊行された。こちらも2016年頃に入手して愛蔵している。

写真家中藤毅彦さんのギャラリートークの鼎談を品川の会場で拝聴していると、ボールドウィンの名前が聴こえてきた。「一番イイ所ヲ奪ッテイキヤガッタクセニ、残リモ奪ッテイキヤガレ」。壇上の3人の先生方の間ではよく知られた話題らしく、それが詳述されることはなかった。それから数日の間「森山大道ー中藤毅彦ーJames Baldwin」などで検索をかけてみたけれどヒットするものがなく、謎だった。

諦めかけていたら、中藤先生がシェアされたyoutubeの中で答を見つけた。写真専門学校時代の師匠だった森山先生が中藤先生の最初の写真集「Enter the Mirror」(1997年)に寄稿した序文の中で引用された言葉だった。「もう一つの国」の第一部の主人公であるルーファスが吐き捨てたセリフだと書いてある。いったいどういう文脈になるのだろう。まだ20代の愛弟子の初写真集を推薦している序文の中で、どういう意味を持つのだろう。ちょっと謎のように感じた。

このセリフが数日頭の中を巡っていた。ハーレムの黒人という設定に沿った荒っぽい口調の訳文に惑わされてしまったが、この文章の内容には記憶がある。"You took the best. So why not take the rest" は ”All of Me”の歌詞とほぼ同じである。昔、しばらく通った教室で教わった曲だったので覚えている。1931年に作られたジャズのスタンダード曲で、ルイ・アームストロングも、ビリー・ホリディも、フランク・シナトラも歌った名曲だ。

本棚からペーパーバックを取り出して引用箇所を探してみた。第一部第一章の終わりに近い部分だった。原文のフレーズは斜体になっていて引用であることはわかるが出典の記載はない。集英社版だとひらがながカタカナになっている。わざわざ言及しなくともよいほどに世間で知られた歌の文句ということだろう。別れた相手に「どうせ心を奪うのなら私を丸ごと奪ってほしい」という切ない気持ちを描いた名曲である。

森山先生の序文は「Enter the Mirror」の作風について「絶望」をキーワードとして論じている。絶望と情熱は一枚のコインの裏表である。写真集の作者の情熱を称えた文章とも読めそうだ。中藤先生のyoutube解説によれば、新作「Down on the Street」と、20代でまとめた「Enter the Mirror」には重要な共通点がある。新しい写真集を読み解くにあたって、かつて森山先生が寄稿された文章を読んでみるのは意味がありそうだ。

2018年1月25日木曜日

仰げば尊し 菊地先生のこと

還暦を迎えた歳に記念の同級会があって再会を果たした先生から、賀状を頂戴した。「泰然、開拓、健康を心がけ、絵を深めていきたいと考えています」と書いてあった。雪の林を描いた先生の絵が印刷されていて一言添えてくださった。大学生になって東京で暮らしていた頃にいただいた賀状のことを思い出した。その賀状には黄色と緑の一輪の花の絵が印刷され、やはり一言添えてあった。「あの絵を思い出す。しんと静まり返った世界。」中学2年生の時の写生大会で長岡操車場から出て来る電車の絵を描いて県ジュニア展の奨励賞をもらった時のものだ。先生がその絵のことを覚えていてくださったのが嬉しくていまだに大切にしている。
 
近況報告を聞いてほしくなり、長い海外勤務を終えて退職したこと、写真の勉強をしていること、同郷の映画監督の映画パンフ作りの手伝いをさせていただいたことなどを手紙に書いた。これからの時間の過ごし方を模索していることを伝えたかったのだと思う。少し迷いのある文面を気にしてくださったのか先生から電話を頂戴した。先生は、ちょうど80歳になられたはずだが、とても若々しい声で「60歳代は最高だよ。頑張りなさい」とアドバイスしてくださった。
 
謎めいた励ましの意味を探るべく、昨年頂戴した先生の日本画集を取り出してみた。先生の主要作品とそれらを振り返る文章が収められている。先生が還暦を迎えられて少し経った頃に新潟日報に連載された24枚の絵と文もある。その紹介文に「その頃、私はちょうど長い勤務生活から解放されて、写生に出かけたり、アトリエで絵を制作したり、雨の日は読書にふけったりできる仙人生活に入った時期でした。いわば人生のいっぷくの頃で、心静かに今までの道のりを振り返る良い機会でした」と書かれている。この先生の凄いのはそれからもずっと現役として絵を描き続けていらっしゃることだ。強く励ましていただいたように感じてうれしくなった。
 

2017年8月30日水曜日

2017 - 2018年夏 ミャンマー難民キャンプ訪問の旅

私が国連工業開発機関 (UNIDO)に勤務していた 時代の先輩であり、帰国後は国連UNHCR協会の理事長をされていた滝澤三郎教授が夏休みに東大、東洋英和女学院の学生たちを連れてミャンマー難民研修の旅に出かけるということだったので、引率の手伝い兼撮影班として参加させていただいた。2017年と2018年の夏休みのことだ。私はUNIDO の後で長らく勤務した欧州復興開発銀行 (EBRD) 時代に、途上国での駐在代表を三回経験したが、旧ソ連地域に限定されていたので東南アジアの経験は乏しい。学生の皆さんに質問されて答えられないのも困るので、ミャンマー本を幾冊か買い込み、読みながら旅をし、旅をしてから読むという読書の旅となった。

滝澤先生の推薦図書リストの筆頭にあったのは根本敬著「物語 ビルマの歴史」(中公新書)である。「王朝時代から現代まで」という副題がついている。ビルマの過去から現在までの通史でとても面白い。2013年に出版されたこの本は、新聞紙上で現在報じられているアウンサンスーチー女史、軍政の歴史的な経緯、諸民族の対立と難民問題等々について理解するのにとても役に立つ。「ビルマかミャンマーか」という序章が面白い。この国は英語による国名を1989年に「バーマ」から「ミャンマー」に変えている。これだけを聞くと、各地に例のある支配国側の言語での地名を元々の現地での名前に変更したような印象を受ける。これはインドの諸都市でも、中央アジアでも、アラブ世界でも起きたことだ。8世紀半ばに唐と中央アジアのタラスで決戦を行い、その後の覇権を握ったと世界史の時間に習ったサラセン帝国の名称も同じ理由で今は使われていない。この国では1948年の独立以来ビルマ語での国名は一貫して書き言葉の「ミャンマー」であり、並行して口語では「バマー」が使用されてきた。他の国の例のような外国語名と現地語名の違いの例よりも複雑だ。民主化に関わった人たちは軍の決めたことへの反感をこめて「ビルマ、バーマ、バマー」を継続して使用する人が多いそうだ。国名からして複雑な国だ。

この国が19世紀後半から続いた大英帝国の支配を経て、1948年に独立した時に「連邦国家」であったことに注意する必要がある。多数派であるビルマ族に加えて、英国統治時代の末頃からカレン族、カチン族など独立を希望していた少数民族が存在していることが現在まで尾を引いている。この本の第5章には日本軍の活動について触れる中で、謀略機関であった南機関がビルマ独立義勇軍(BIA)に深く関与し、戦後独立の父と呼ばれたアウンサン将軍を日本に招くなど、協力関係にあったことが書かれている。

この本の第10章は「軍政後のビルマ 2011年以後」と題されている。現地の様子を実際に体験し、今後の動向を探ることが滝澤先生率いる研修旅行のテーマだった。8月11日には首都ネピドーを訪れ、中央政府の当局者を訪問した。国家計画・経済開発省の高官に質問する機会があった。「難民の帰還問題を解決していくためには経済の発展が必要である。地元中小企業を育成し雇用を創出することが課題となる。インフラ整備、外資導入と並行して、地元の起業者のための金融システムを整備するためにどのような取り組みがなされていますか?」と質問した。「中小企業、特にマイクロ企業向けのファイナンスの重要性は政府も認識しているので、マイクロ・中小企業向け開発銀行を設立した。」という説明だった。根本氏の本でも「新政府は2011年8月以降、コメや豆類など一部農業産品の輸出税軽減に始まり、木材加工品輸出に対する商業税免除、自動車輸入の規制緩和、民間銀行六行による外貨交換業務の容認、マイクロファイナンス法の発布などの経済改革を行った」と紹介されている。

今回のミャンマ―の旅でお世話になったミャンマー人ガイドのリンさんが鞄から取り出して紹介してくれたのが泉谷達郎著「ビルマ独立秘史 <その名は南機関>」(徳間文庫)である。1967年に刊行されたこの本は陸軍中野学校出身の筆者による昭和15年から敗戦までの南機関の活動についての回顧録である。リンさんは1988年の民主化闘争の後で日本に語学研修生として滞在した。やがて滞在期間が切れ、不法滞在移民として本国送還された経歴を持っている。この時に難民申請を行うという選択肢もあったが、5年の日本滞在を経て自分の生まれた国に帰還することを選んだ。達意の日本語を話すリンさんは現在は日本語ガイドとして活躍している。様々な著名人のミャンマー訪問を手伝ったと話してくれた。

この回顧録は面白い。明治時代にやはり陸軍士官出身で、長らく中国大陸で謀略活動に関わった石光真清氏の回顧録の印象が共通している。この本の第八章「作戦行動に移る」の中に「インドシナ山脈を越えてゆくと国境の町メソードがある。町の西を流れるサルウィン河支流タウンジン河が国境となっている。対岸にはビルマの小さな町ミャワディがある」と書かれている。モールメン (現モーラミャイン)、チャイトウ (現チャイティーヨー) を経てラングーン (現ヤンゴン) に向かうルートは、今回の研修旅のバスで通った道である。ビルマ族と協力しながら対英工作・ビルマ独立を目指した南機関の活動は、やがて陸軍本部が英国にとって代わりビルマ軍政に向かう方針に転換した時点で暗礁に乗り上げる。前述の根本氏の著書第7章では、戦後の日本が深刻な食糧不足に苦しんだ時に、独立間もないビルマ政府が優先的に日本に米を割り当てたことについて、旧南機関のメンバーが奔走したことが記されている。南機関とビルマ側の同志たちの結びつきの強さがうかがわれる。

現地合流の参加者も加えて総勢25名の旅のロジをしきってくださった森田さんには、わたしがチャイティーヨ―の遺跡で足を滑らせて怪我をしたときを含め、とてもお世話になった。森田さんに宋芳綺著、松田薫編訳「タイ・ビルマ 国境の難民診療所」(新泉社)という本を紹介していただいた。今回の旅では8月7日の朝にバンコクに到着し、そのまま大型バスでメソートに向かった。午後に到着して最初に向かったのがこのメータオ・クリニックである。1959年生まれのドクター・シンシアの物語だ。カレン族の両親を持ち、ヤンゴンで生まれたこの先生は大学卒業後、首都ヤンゴンの大病院に勤務するがやがて自分の属するカレン民族の村で医療活動を行うことを決意する。1988年の民主化運動への政府による圧力が高まる中でシンシア先生は民主化運動や革命についてもっと知りたいという気持ちで活動家たちと行動を共にすることを決意する。この年の末に国境のタイ側にあるメソートにたどり着く。医師としての活動を始めたシンシア先生は、医療不足と貧困に苦しんでいるのは政治的な難民ばかりではなく、厳しい山岳地帯から逃れてきた経済移民たちである状況に直面する。メソートのクリニックの活動に共鳴するボランティアを募り、世界中から運営資金を集めながら医療活動を継続して現在に至っている。クリニックというよりも、困っている人々の居場所としてのコミュニティを運営しているわけだ。私たちが訪問した日はシンシア先生は不在だったが、日本から参加している3名のボランティアの女性たちから、現地の様子を案内していただき、夕食を交えて話をお聞きした。

もう一冊旅の前に見つけておいたのが吉岡逸夫著「ミャンマー難民キャンプ潜入記」(出版メディアパル・高陵社書店)である。8月8日の午前中にカレン族の難民が住んでいるメラ難民キャンプを訪れたので、2008年に刊行されたこの本は参考になった。この本で印象的なのは難民キャンプを訪問するためのタイ当局の許可を入手するのに苦労した話と、チェックポイントでもジャーナリストだと警戒されるので学生として訪問するように指示され、カメラは隠すようにと注意を受けるくだりだ。今回の私たちの旅は学生の研修旅行としてNGO経由で許可を得ている。カメラについてはお世話になったNGOの方から同じような注意をいただいた。興味深いのは吉岡氏の本の中に「もう大丈夫だ。中に入ったらこっちのもの。写真を撮っていいぞ」という案内者の記述がある点だ。

メラ難民キャンプの住人たちがなんだかゆったりした雰囲気で生活していて、外部からの訪問者に親切に対応していただいたことは予想外だった。「難民キャンプ」という語感からは緊張した、重苦しい雰囲気を予想していた。キャンプの代表である人々の話を聞くとなるほどだった。1988年の民主化運動の頃に移住してきた人はすでに30年近い歳月をこのキャンプで過ごしている。長い年月を経て、キャンプ以外の世界を知らない新しい世代も増えている。他方でミャンマーでは軍政が終わり、民主的な政権となったので難民の帰還が新しいテーマとなった。30年近い歳月の間に積み上げられた生活をどのように、帰還に向けて変えていくのか容易な話ではない。

バスの長旅の終点は古都バガンだった。バガンからヤンゴンへは今回の旅で初めて国内移動に飛行機を使った。3千ともいわれる仏塔寺院のそびえ立つ古都を訪れるのは植林ツアーに参加した去年の旅以来だ。その後に書店で見つけた射場博之著「ミャンマー もつれた時の輪」(2016年、イカロス出版)は、2011年から2013年にかけての旅の記録である。第一章はバガンから始まっている。私の昨年のバガン訪問では丘の上から夕陽を眺めた。今年の訪問では朝日に輝くバガンの眺めを期待していた。午前6時過ぎの日の出だったが、5時40分くらいに塔上からの鑑賞ポイントに到着すると、もう明るかった。空は雲に覆われていて、今一つ感激は薄かった。乾期に訪れてみたい場所だ。

2017年の研修旅の後で、竹山道雄著「「ビルマの竪琴」(新潮文庫)を読み返してみた。研修旅行の後で3日ほどヤンゴンに滞在し、2016年の植林ツアーで知り合った友人たちと再会し、ヤンゴン近郊の村々を訪れた。1人は「ビルマの竪琴」の話をしてくれた人だ。「こちらでも翻訳されているので知っています。書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という話を聞いた時は意外だった。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反である点だ。物語の中では水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。戒律違反の楽器を持ち歩き、演奏していれば目立ち過ぎて困るはずという指摘だった。ヤンゴン空港から遠くないところにある日本人墓地を訪れると、徴兵されて南方戦線に駆り出され、再び祖国の地を踏むことのできなかった人々の慰霊碑があった。「ビルマの竪琴」のモデルと言われている人の墓石もあった。

新潮文庫の著者あとがきによると「ビルマの竪琴」は昭和21年から23年まで童話雑誌に連載された。その後、単行本として出版され毎日出版文化賞、文部大臣賞を受賞。旧制一高の教授として学徒を戦地に送り出した竹山氏は、鎮魂の物語を書こうとしたそうだ。敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面の構想が、スコットランド民謡やアイルランド民謡のイメージになり、旧英植民地だったビルマを舞台に選ぶ。著者が「子供向けに書いた童話」と書いているが、心に響く本だ。


 




 

2017年1月1日日曜日

誰か故郷を想わざる

母校である新潟県立長岡高校の校歌に「鋸山はけざやかに東の空に聳えずや」とも、「峨峨たる険峰鋸はその東面に天を指し」とも歌われる鋸山はJR長岡駅から東の方向にある。峠を越えて行くと栃尾の盆地が広がっている。栃尾は昔は独立した市だったが、今は合併して長岡市の一部となっている。わたしが生まれた土地だ。ロンドンに住んでいる同郷の先輩と金融街シティのカフェでランチをした。長岡から峠を越えて栃尾に入ったばかりのところに先輩の故郷がある。それぞれの思い出を語り合って盛り上がった。

先輩の話の中に、優等生だった同級生の女子が登場した。上級生が体育館を占有して、小さい子供たちが使えなくて困っていることを、ある時皆で話し合ったそうだ。話がうやむやになりかけた時に、その女子が立ち上がった。「自分たちが小さかった時に体育館が使えなくて悲しかったことを思い出そう。同じことを下級生にしたら恥ずかしいよ」と皆を一喝した。先輩の心の中に鮮烈な記憶として残ったそうだ。

歳月は過ぎ、先輩は大学を卒業して東京で就職した。その女子も東京の大きな会社で働くようになった。ある年に同窓会があった。「将来は皆どうしているだろうなあ」という話題になって、先輩は子供の頃からの海外雄飛の夢を語った。その女子は「大きな夢だなあ。無理しないで」とあまり真剣に受け止めてくれなかったらしい。先輩はそのやり取りを忘れなかった。「いつか必ず自分の夢を実現しよう」という気持ちを持続できたのはそのせいらしい。

それからたくさんの時が流れた。同級生のほとんどに孫がいるようになった頃に、山深い郷里の温泉で同窓会が開かれることになった。地元にUターンしたその女子は、今も元気で頑張っている。その女子から「仕事が忙しくて参加できずに残念です」というファックスが会場に届いた。その中に先輩のことが出てきた。「昔からの夢を諦めないで、よく頑張ったね」と書いてあった。先輩は鋸山に近い栃尾の峠から、わたしは刈谷田川を望む観音山から長岡の丘陵や越後平野を眺めていたはずだ。もっと広い世界があるはずだと夢見ていた二人が、故郷を遠く離れたロンドンで出会った。師走の金融街の喧噪の中でランチをしながらしみじみとした気持ちになった。

この話をつれあいにすると「タシケントの話みたいだね」と言う。1999年に初めて夫婦でウズベキスタンに赴任して間もない頃に政府側から歓迎会をしてもらう機会があった。夕食の前のドリンクで主催者である高官とつれあいの会話が盛り上がっていた。偶然にも二人ともカリフォルニアの同じ州立大学で勉強していたのには驚いた。中央アジアやコーカサスでは、乾杯の時にスピーチをする習慣がある。その時に女性を誉めるのは決まり事だ。「よい仕事をする男の陰には、かならず偉大な女性がいる」というのが主催者の歓迎スピーチだった。それ以来、つれあいはこの人のファンになった。彼女によれば、わが郷里の先輩がロンドンで活躍する今日があるのも偉大な女性の同級生に鍛えられたからなのである。

水羊羹みたいな形をした地球について考えてみたことがありますか?

世の中に大事なことはいろいろある。経済の発展は大事だ。エネルギーの確保は大事だ。生活の便利さも大事だ。どれも人々の生活に不可欠なものだからだ。ただし、ものには順序と優先順位があるはずだ。いまだに2011年の福島の原発事故で困っている人たちの問題が存在し、それが公害として認識されているなら、それらの優先順位を繰り上げて考える必要があるのは当たり前のことだろう。わたしは自然回帰論者ではないし、多数決で人々が選ぶなら原発もあり得ると考えているが、現段階で、2011年の事故で被災された人々への対応も含めて、議論されるべきことがらの優先順位が正しく設定されていないと考えているので、現状での原発再開には反対だ。

原発の再稼働というと、何か政治的な議論かと構えてしまうことが多いが、「2011年に福島原発で起きたことが自分の故郷で起きるだろうかどうか」と考えてみれば単純な話だと思う。わたしは新潟県長岡市生まれである。長岡市の隣には柏崎市がある。友だちも親戚もたくさんいる。自分の故郷で原発事故の不安にさらされながら生きていきたいと思う人はいるのだろうか?わたしは嫌だ。問題はそれが「誰かの故郷」に限定される話なのかどうかだ。

ロンドンで勤務していた時に、英国新潟県人会のテーブルでこの話になった。わたしが「少なくとも長岡や柏崎で原発を再開してほしくない」という話をすると、同郷のI塚大先輩が別の見方から何故、原発の再開を望まないかの話をしてくれた。われわれ6人が着席していた丸いテーブルが直径2mくらいあった。「これを地球とみなした場合、地殻の厚さはどのくらいあるのだろうか?」というのが先輩の質問だった。あてずっぽうで1cm位かなと思った。調べてみると地球の直径の長さは12756.3 km で、地殻の厚さの平均が35kmだそうだ。これを2mのテーブルに当てはめると地殻はわずか 5mm しかないことになる。地殻の下にはマントルがある。これは地球の中心部ほどではないにしても熱をもって、対流している部分だ。この地殻の上に乗っかっている日本列島で、長岡がどうか、福島がどうか、東京がどうかという個別の場所の議論をする意味があるだろうかというのが先輩の指摘だった。目からうろこのように感じた。

もちろんエネルギーが無くなって、明日の生活にも困るというのであれば、ある程度のリスクを覚悟で暮らしていかざるを得ない。LNGや石油の値段が高騰して日本経済が破綻するというのなら、腹をくくって原発事故のリスクを抱えながら生きていかなければならない時代もやがて来るかも知れない。ただそこまで追い詰められた議論をする前に、省エネの在り方や、再生エネルギーの在り方を考えて見る価値はある。2mのテーブルを眺めながら地殻の厚さが5mmしかないことを考えたら、物の考え方は変わるはずだ。地球が水羊羹と大して変わらない形でできていることをもっと真剣に考える必要はありそうだ。2011年以前の日本のエネルギー業界には「常識」があった。電源を継続的に増やしていかないと夏場の大停電が起きるという常識だった。あれから6年経った。まだ大停電は起きていない。こういう話にはすべて「前提」があるので、電力会社や政府がウソを言ったわけではない。ただそういう前提つきの話を原点に戻って見直す必要がある。


2016年12月31日土曜日

「私の夢」に再会した

2016年12月に千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館を訪れている。この美術館で開催されていたレオナール・フジタ展で40数年ぶりに「私の夢」に再会した。この絵は私が中・高生の頃長岡の現代美術館に所蔵されていたが、やがてこの美術館のオーナーの銀行が経営破綻する。所蔵品は各所に分散して引き継がれた。1993年に長岡市の信濃川ベリに新潟県立近代美術館ができると、フジタの「私の夢」はこちらの所蔵となった。 長い間、再会を夢見てきたが海外での生活が続いていたので2015年の秋に帰国するまで機会がなかった。各地の美術館では相互の貸出が盛んらしく人気のあるこの絵は頻繁に旅をしていたので、一時帰国の時にも会えなかったからだ。 40年ぶりの再会には新しい発見があった。今回の展示で「私の夢」の左隣にもう一枚の絵がかけてあった。絵の中央に横たわる乳白色の裸婦像はそっくりだ。右側の展示の「私の夢」が何故暗い印象があるのだろう?眠る裸婦像の周辺で十数匹の猫たちが侃々諤々の議論でもしている様子で踊っている。 2枚の絵の制作年を確認してみると、一方はフジタがパリの画壇の寵児として脚光を浴びていた頃の絵である。もう片方は戦後に戦争協力のの批判にさらされ日本を捨てる直前に描かれた絵である。どちらの絵でも中央にある裸婦像はほとんど同じように見える。変わったものと変わらないものの対比が鮮やかだ。



2016年11月8日火曜日

池澤夏樹 「植民地の叛乱」の構図

池澤夏樹氏の小説は「スティル・ライフ」で芥川賞受賞の頃から時折り読ませていただいた。去年くらいから再び興味を持っているのは「母なる自然のおっぱい」というエッセイ集の中の文章に出て来る桃太郎論を政治家が取り上げたことで、新聞紙上で同氏の返信があったことがきっかけだった。桃太郎話を明治以降の近代化の文脈で取り上げた文章だ。実はこれは同氏ご自身が、文庫本のあとがきで解説されているようにオリジナルではなく、福沢翁などを含む明治以降の知識人が何回か取り上げてきたテーマのようだ。数年前に同趣旨のテーマが広告賞を受賞して話題になったこともまだ記憶に新しい。
 
A新聞の夕刊で池澤氏が、同じ文脈で最近の沖縄問題に関して「何故、土人という言葉が飛び出すのか?」という問題を提起している。この文章の結びで沖縄と原発問題の共通性が指摘されていた。わたしの故郷に近い柏崎・刈羽についても言及されているので考え込んでしまった。学校で法律を学んだ時には「個人の幸福追求の権利」は「公共の福祉」によって制限されることがあり得ると教わった。自分の選んだ立場を理論つけしようとすれば、どちらも可能である。「多数説」が時代によって左右に振れながら登場してくる理由だろう。
 
明快な答えを見つけにくい問いについての論争でこれまで「公共の福祉」論がやや優勢だった気がするのは、右肩上がりで経済が成長し、世の中が「発展」していた時代には、「公共の福祉を優先させれば、全体として皆が幸せになる」という考え方が共有されやすかったからだろう。高度成長の時代が終わってしばらく経ち、社会の方向性についての見方も多様化した現在ではどうしても地域格差の問題に焦点が当たらざるを得ない。その意味で池澤氏の論説は極めて現代的だ。添付の記事は登録すれば無料で読める。
 
エネルギー論としての原発については様々な意見があるだろうが、わたしの立場は単純だ。故郷である新潟県がエネルギー消費地域の植民地として犠牲になることには反対だ。夕刊の記事を読んでそんな思いを強くした。
 

2016年11月7日月曜日

加藤九祚先生を偲ぶ会 2016年11月3日

ウズベキスタンで発掘作業を指導されていた加藤九祚先生が、2016年9月に酷暑のテルメズで体調を崩されご逝去された。94歳だった。加藤先生を偲ぶ会が11月3日に開かれたので、参列させていただいた。同じ年の前半に開かれた中央アジア・シンポジウムに先生が登壇された時に、壇上の先生を拝見した。小説家井上靖氏の中央アジアエッセイに加藤先生がよく登場することから、加藤先生の著書を読むようになった。私自身もウズベキスタンの首都タシケントに5年ほど駐在する機会があったこともあり、気になる人だった。タシケントでご一緒したK大使、中央ユーラシア調査会のT先生、今は東京にいるロシア語の恩師であるピヤノヴァ先生を通じて間接的には消息を何度も聞いてきたので、勝手に親しみを感じている。

市ヶ谷の地球広場のあるJICAのビルで午後2時に始まった先生を偲ぶ会は満席で立ち見の人だけでなく、部屋に入りきらなくて別室でTVで会の様子を眺める人たちでいっぱいだった。ウズベク時代の知人たちもTVでおなじみの中央アジア関係者もいらしていた。シベリア抑留時代、平凡社の編集部時代、国立民族学博物館時代、出版された書籍の関係者、外交団の皆さんのスピーチが興味深いものばかりだった。午後6時前に閉会となり、その後は小グループに分かれて打ち上げとなった。

朝鮮半島から宇部のセメント工場で働く兄を頼って本土にやってきた加藤先生は苦学しながら上智大学で独語を学ぶ。やがて陸軍に志願し任官する。これが2015年まで郷土の土を踏む気になれなかったことの理由だったことを、同年に放送されたTVのインタビュー番組で説明されている。シベリアに抑留され、独語のできるインテリ士官として作業をこなしながら露語をマスターする。この当時の隊員の方が偲ぶ会で思い出を披露した内容が印象深かった。

5年の抑留生活を終えて帰国し出版社に勤務する。この時代に机を並べたA山光三郎氏も追悼スピーチをされた。編集者として活動する中で様々な出会いがあり、また露語を活かして学者の途に進んでいかれたようだ。やがて発掘の実績が認められ国立民族学博物館に迎えられる。この時代に机を並べた方の追悼スピーチによれば、シベリア帰りで露語が堪能ということで公安当局から「スリーパー」としてのスパイ嫌疑を受けたそうだ。当局者は月に一度くらい先生を訪問して、動静を探る。加藤先生は公安氏が来ると一緒になって酒盛りをして楽しんだそうだ。やがて公安氏が一升瓶を下げて訪問するようになる。抑留についても自分は「国費で5年間シベリアに留学」した(ようなもの)と述懐されていたそうだ。

4時間に及んだ偲ぶ会では様々な方々が加藤先生との思い出を披露した。井上靖氏との親交についてもいくつかのスピーチに登場した。加藤先生は、ご自分が井上氏と酒を酌み交わしながら紹介した材料が小説「おろしや国酔夢譚」につながったことを誇らしく思っていたそうだ。90歳を超えてからも発掘のためにウズベキスタンを訪れるなど、精力的に旅をされていた。今年もミャンマーを訪れバガンの古寺群に感動されたという話を聞いて少し驚いた。わたしも今年の8月末にバガンを訪れたばかりだった。ウズベキスタン、ミャンマーと加藤先生の後を追いかけているような不思議な気持ちになった。




 

2016年9月12日月曜日

ミャンマー植林の旅 「ビルマの竪琴」の空想の舞台を追って

この夏の終わりにミャンマーへ旅をした。若い頃にバックパックを背負って欧州も、インド・スリランカ・ネパールもペルー・ボリビア・メキシコも旅しているが、還暦が近い歳になると一人旅は気が重い。知り合いの方が主催されているNGOの植林ツアーのことを知り、記録写真係を志願して連れて行ってもらうことにした。植林ツアーの目的地は古都バガンだった。日本から行く場合は首都ヤンゴン経由となる。ヤンゴンは暑くて湿気が多く大変だったが大きな寺院や涅槃像で有名な寺院やアウンサン将軍の記念館など見どころもたくさんある。ヤンゴンの空港に着くと現地側パートナーとしてこの旅に参加してくれた団体のメンバーたちが待っていてくれた。到着時間が遅めだったので宿にチェックインする前に、空港からの途中でレストランで夕食となった。

この席で同席したのがADさんだった。話が面白い人で旅の間ずーとお世話になって楽しかった。夕食をしながらこの国と植林ツアーについて説明を受けた後で「質問はありますか?」ということだった。「「ビルマの竪琴」という映画を古いのも、新しいのも観たことがありますが、この映画の原作になった本のことを知っていますか?」 と質問してみた。「こちらでも翻訳されている素晴らしい本です。でも書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という返事を聞いてびっくりした。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反だという点だ。物語の中では日本兵である水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。その時に戒律違反の楽器を持ち歩き、さらに演奏もするということであれば目立ち過ぎて説得力を欠くことになる。

僧侶と竪琴の関係以外にもう一つ気になったのは、牛についての記述だ。文庫版の165頁に「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」という記述がある。わたしが今回の旅で牛車を引く牛たちを見かけた時に同行した人たちに「あれは水牛でしょうか?」と聞いてみると「違うよ。牛だよ。」と教えられた。帰国して調べてみるとコブ牛というものらしい。なるほど首を前に垂らしたその付け根のあたりが骨の突起のような形でこぶ状に見える。よく見かけたこのコブ牛の角はさほど大きくない。水牛ということになると角も体ももう少し大きいようだ。

市川崑監督の映画は安井昌二主演の1956年作品も、中井貴一主演の1985年作品も観たことがあるが原作を読んだことがなかった。バガンから帰国して、書店で新潮文庫版を買った。著者あとがきによるとこの作品は昭和21年から23年まで童話雑誌に子供向けの物語として連載されている。戦後間もない話だ。23年の秋に中央公論社から単行本として出版され毎日出版文化賞、25年に文部大臣賞を受賞した。文庫版の後ろの「ビルマの竪琴ができるまで」という著者の文章が面白い。ここに「一度もビルマに行ったことがない」と書かれている。終戦当時すでに40代の半ばだった著者は軍隊生活もほとんど経験していないそうだ。

旧制一高の教授として多くの学徒を戦地に送り出したことで、鎮魂の物語を書きたいと思ったことが書かれていた。著者の執筆の目的は徴兵されて異国で野仏となった人々の慰霊にあるので場所は何処でも良かったわけだ。最初は中国南方のどこかの城市に籠城する設定だったが、敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面を考えているうちに、スコットランド民謡やアイルランド民謡を登場させることを思いつく。このため旧英植民地だったビルマが舞台になったと説明されている。

空想物語であり、童話として出版されたはずのこの本を読んでみると、著者が行ったこともない国が舞台となっているにもかかわらず、リアルな印象がある。物語の読後感は深い。そういうわけで、この夏の終わりに自分で撮影したミャンマーの風景をしみじみと眺めている。

10頁「ここらの森は大きなチークの木です。そこには猿が跳ねているのも見えます。。。」


15頁「赤と黄の模様のあるルーンジという腰巻のようなものをすると、どう見ても生まれながらのビルマ人でした。」
 

24頁「村人たちはわれわれの歌を、まるで儀式の時のようにまじめにきいていました。」
   

43頁「まったくの竹の柱に萱の屋根です。床が高く、風遠しよくつくってあるので、そう湿気ません。」
  

47頁「椰子の実が重要な食糧であることは有名です。」


57頁「ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。」
 

111頁「寝姿の仏像も多く、中にはいく十メートルもある仏様が上半身をなかば起こしているのもあります。」


165頁「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」
 

171頁「人間は一度はかならず死ぬものだし、死ぬことによってこの世の煩悩を脱れて救われるのだ、人間がそこからきた本源にかえるのだ、と信じています。」
 合掌。
 

2016年9月8日木曜日

ミャンマー植林の旅 ゴミ捨て場のカラスたちとリサイクル図書館のこと

ミャンマー日本エコツーリズム(MJET)という日本のNGOがミャンマーの古都バガンで活動していて、バガンにある村々を選んで毎年1000本くらいの木を植えていると聞いたので、わたしも参加させていただいた。8月26日から9月4日まで9日間の旅だった。日本からは大学生3人を含む10人が参加した。現地のネイチャーラバーズというグループから6人が参加した。このNGOによる植林活動はすでに6年ほどの実績があるそうだ。これまでに植樹した数か所の村を回って若木の生育状況を確認するとともに、今年も新しい村で1000本の植樹を行った。子供たちは植林作業では苗運びを手伝った。村の男性たちは穴を掘ってくれ、女性たちは植えるのを手伝ってくれた。植樹だけでなく今後の水やりなど村を挙げて「自分たちの村の緑を守る」という意識と協力がなければボランティア活動としての植林活動は成り立たない。日本のNGOはこうした活動を企画実行すると同時に、日本で賛同者を集めて資金集めをしている。

これまでに植樹した林の状態の視察結果は場所ごとに様々だった。9割近くの木が育ってきれいな林が日陰を作っているところもあれば、白アリにやられてほぼ全滅のところもあれば、7割程度の木が生育しているところもある。首都のヤンゴンは一日に何度もスコールが降り、高温多湿だが、バガンは亜乾燥地帯であり8月末の滞在中には雨が降らなかった。今回植えた木はチークとタマリンドだった。これまで植樹された各村で木々の生育状況が異なるのは村人による乾期の水やり状況、水利当局による灌漑用水の配分状況、白アリなどの生息状況など様々な要因がからむそうだ。いくつか立派に生育している木の林をみていると宮沢賢治の童話「虔十公園林」を思い出した。

植林の旅では小学校をいくつか訪れた。村の共有の土地で木を植える場所として校庭の隣が選ばれることが多いからだ。MJETというNGOはここで学校の先生たちをサポートしながら環境の大切さを子供たちに実感させる目的で実験授業の試みも始めている。今後のMJETの活動として力を注いでいくことになるのはゴミの処分とプラスチックゴミなどのリサイクルだそうだ。バガンの村のゴミ捨て場の様子を見てみるとかなり深刻な状況にある。小さな村では焼却場の建設という方法は難しいので、適切な場所に穴を掘って埋めることになる。この対応が遅れている場所がゴミ捨て場と化してしまうと後は雪だるまのように大きくなっていく。もう一つの問題はキチンとしたゴミ捨て場とゴミ回収の仕組みがないと学校の隣などの村の共有地にゴミが散乱する状態になりやすいことだ。1.いくつかの村の連携をはかりしっかりした埋め立て地を作って運営していく。2.村ごとにゴミ収集のルールを作り、リサイクルを進めるなどしてゴミの量の減少をはかる。3.学校周辺などでゴミ拾いの運動を起こすなど環境美化のキャンペーンを進める。。。等々の対策が必要だと思われる。




ミリンダ図書館というプラスチックゴミのリサイクルの実例を見学する機会があった。ペットボトルを有料で回収し、それを壁の内部の建材として活用している建物だ。これは素晴らしい試みた。その昔3千ほども仏塔のあるバガンの森が消滅し、乾燥化が進んだのは仏塔を作るための煉瓦を焼くために多くの木が使われたからだそうだ。ペットボトルのリサイクルによって燃料として使われる木の消費量を減らすことは、木を生育させる植林と同様の効果を生むことになるはずだ。







ミャンマーという国で自然や街の風景というのが直接の動機で参加した植林ツアーだが、様々なことを考えさせられたのでしばらくわたしのミャンマー熱は続きそうだ。





 

2016年8月23日火曜日

ビシュケクの料理店 青瓦台の記憶

1986年以来、2年間を除いて海外で過ごした。旅したり住んだりした国々の食卓についてノートを書いたが2007年の末から3年半暮らしたビシュケクについては、シャシリク、ラグマン、プロフなど中央アジアに共通の料理よりも、朝鮮半島料理の印象が強い。韓国のビジネスマンが退職してレストランを開いた店もあれば、スターリンの時代に満州から移住させられた朝鮮の人々の家族が開いた店もあった。朝鮮半島出身の人がたくさんいるのでコリアン料理の激戦区となる。競争を勝ち抜いている店は美味しい。焼肉と付け合せの様々な野菜、キムチ、石焼ビビンバなど定番ものはもちろんだが、それ以外に家庭料理風のメニューもある。

ビシュケクの青い看板が目印のチョンギバという店によく通った。漢字で書くと青瓦台となるそうだ。マスターが良い人でビシュケクの郊外にあるメープル・ツリーのゴルフ場で会うと、いつもにこやかにあいさつしてくれた。彼はわたしが一人でもチョンギバにランチに通い、夕方はお客さんとの会食とかスタッフと飲み会にも、この店を使ったので喜んでくれていた。この店のサバのコチジャン煮が絶品だった。アジア食品のスーパーもたくさんあるので冷凍のサバは簡単に手に入る。熱々ヒタヒタの辛みそスープにサバの切り身とよく煮えた大根がたっぷりだった。辛みそスープを白いご飯にかけるとたまらない。熱々でやけどしそうになるのでよく冷えたビールは欠かせない。ポイントは唐辛子味噌の使い方だ。癖になる味だ。

 この店に限らないが、メニューにはなくて、韓国の友人たちと会食した時だけ出てくる食べ物があった。茶碗蒸しのようでもある。ケランチムという名前だった。タシケント以来の長いつきあいで、ビシュケクで再会したKYと一緒だったりすると必ず出てきた。一人分用の小さな鉄釜に入って膨らんでいるのを、熱々の内にスプーンで食べる。火傷しないように少しずつ食べる。茶碗蒸しというよりもスフレに近い。ケランは鶏卵のことでチムは蒸したものの意味だと教えてもらった。具は入っていない。シンプルで優しい味がなんとも言えない。ビシュケクを離れる頃には、頼まなくても時々出てきた。常連として認められたようで嬉しかった。もう一つある。インスタントラーメンと魚肉ソーセージが入っているチゲ(鍋料理)の一種だ。ブデチゲという名前で、漢字で書くと部隊チゲとなる。妙に懐かしい味だった。

 

2016年8月17日水曜日

2つの民話 たらい船を漕ぐ娘と山を越えて走る娘

寿々木米若の「佐渡情話」という浪曲は見附の父が元気な頃の持ち歌だった。懐かしいのでCDが書棚にある。柏崎の漁師が荒波で難破し命を落としかける。佐渡の人に助けられて、回復を待つ日々を過ごしている内に、助けてくれた人の娘と恋に落ちる。傷が癒えた若者は必ず迎えに来ることを誓って柏崎に帰っていく。その時に娘には赤ん坊が出来ている。その後紆余曲折があり、はらはらの連続だが、最後にめでたしとなる。 この話には別にオリジナル版があってそちらは不倫も裏切りもある凄い話になっている佐渡ヶ島の娘と海を隔てた柏崎の男の物語である点は共通している。かよわい娘がたらい舟で佐渡から柏崎まで渡ってくる怪力物語になっていることがすでに謎めいている。美空ひばりさんが歌った「ひばりの佐渡情話」はオリジナル版に近い悲恋物語をせつせつと歌うものだ。

長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。民話を読んでみるとこれも凄い話だ。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。この辺りは佐渡情話と共通している。娘は温かいつきたての餅を運んでくる。不審に思った若者が問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。娘が異常な力を持っていること気がついた若者は怖ろしくなる。ついには疎ましくなって娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷には真っ赤なつつじが咲くようになったという伝説だ。





2016年8月13日土曜日

ロケット弾と竜神の話

1999年の春から2004年の秋までウズベキスタンの首都タシケントで、国連専門機関に勤務されていたHさんとご一緒した。ジャーナリストだったご主人から、わたしが働いていた組織と現地政府との関わりについて質問されたことがあった。当時は微妙な話題が多かったので、返答に困ったので覚えている。Hさんは、その後シリアの首都ダマスカスで勤務することになった。ある時に日本に里帰りして神社にお参りすると、シリアに戻ってからも竜神様のようなイメージが脳裏から離れなかったというのがご本人の記憶だ。ダマスカスのプールで泳いでいると後ろ5mほどのところにロケット弾が着弾した。「物騒なご時世に水泳か」と思う人もいそうだが、途上国の勤務では体力と気力の維持が大切だ。物騒な国だからこそ運動したり、歩いたりできる場所は限られる。ホテルの施設くらいしかない。ロケット弾が水の中で破裂したおかげでHさんは九死に一生を得た。Hさんは龍神さまのご加護だと思ったそうだ。

龍のイメージで鮮明なのは小学校の時に学校で上映されたアニメ「龍の子太郎」だ。童話作家の松谷みよ子さんが長野県の民話をもとに再構成したこの作品は1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。山の仕事で疲れ果て、空腹で気が遠くなりそうだった太郎のお母さんは、川でとれた魚を焼いている内に仲間の分まで食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまう。残された太郎少年が、龍となった母を探し求める冒険物語だ。子供心にその魚が焚き火でジュウジュウ焼ける香ばしい匂いと、空腹に負けて一匹また一匹と食べてしまう場面が怖ろしい記憶として残っている。自分がそのような立場に立たされたとしたら誘惑に打ち勝つ自信がなかったからだ。極限状態に近い空腹を抱えながら、食べてはいけないというのも酷な話だ。

郷里である新潟県長岡市に高龍様という神社がある。上越線の宮内の辺りを流れる太田川の源流の辺りだ。見附の父が元気だった頃に一緒にお参りに行って交通安全のお守りをもらったことがある。このお守りはわたしが日本を離れて、様々な国を仕事で訪れるようになった時に必ず旅行のカバンに入っていた。コーカサスへの出張でも、中央アジアへの出張でも一緒だった。こちらの神社は「蛇」がご本尊だ。しぶとい生命力と根気強さから商売繁盛にご利益があるとされている。その昔は、長岡の厚生会館ホールなどで芸能人の公演がよく開催された。ヒット祈願などで高龍神社を訪れた有名スターも多いそうだ。父を思い出す場所になった。

フビライ汗と馬頭琴「スーホの白い馬」の思い出

1993年から2015年の夏まで働いた職場は発足当初はロシア・東欧の国々が活動の対象国だったが、2000年代後半になってモンゴルも対象国となった。バット君は職場で知り合ったモンゴルの人たちの一人だ。この人の本名はもっと長いが誰も発音できないので短い通称を使っていた。ある日彼のオフィスの前を通りかかった。通路と個室を仕切る壁はガラスなので中の様子が見えた。デスクの壁に飾ってある丸顔で威厳のあるアジア風ポスターが気になった。「今日は」と言って彼に話かけた。フビライ汗の肖像だった。モンゴルの話になった。わたしは作家開高健のモンゴル紀行などを読んでモンゴルに興味があるという話をした。バット君がおもむろに机の引き出しを開けた。「君がモンゴルを好きなのはうれしい。このCDも聴いてくれ」。馬頭琴の演奏CDだった。気持ちの良い音だったのでそれからしばらく聴き続けた。

2014年の夏に千石にあるモンゴル料理店シリンゴルを訪れた。高校同窓のフェースブック友だちと3人だった。モンゴル料理は初めてだったが、中央アジアに駐在して以来、羊肉は大好きだ。途中で馬頭琴の演奏があった。モンゴルの草原を馬が駆けているような軽快な曲と中国風のなんとも懐かしい感じの曲だった。軽快な曲はモンゴルの物語「スーホの白い馬」の音楽だった。大切なものと出会う喜びがあり、理不尽な形で別れがくる悲しみを歌うのは世界中で共通する感情だ。その次に客席から若い人が呼ばれて馬頭琴の弾き語りとなった。太い弦が低くふるえているような声が響いてきた。お坊さんたちの読経の声を思い出した。

蛇足になるが、「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督、2007年)という山口さよこ(小夜子から改名)さんが主演した映画があるそうだ。山口さんはこの映画の完成後の2007年の夏にご逝去された。この映画いつか見てみたい。

2016年7月16日土曜日

英国首相の就任スピーチ

6月に行われた国民投票以前のBBCの予測記事ではメイ内相はオズボーン蔵相、ジョンソン元ロンドン市長と並んで、次期首相候補の3強の1人だった。3月24日のBBC記事によるメイ女史の人物評は「英国のメルケル(=強い女性)、手堅い実務手腕、カリスマ性を欠くとの声もある」などだが、重要な閣僚ポストである内相を長く勤め、移民問題、犯罪撲滅ではタカ派の姿勢で一貫していて、保守党内の人気は常に高かった人だ。党首に選ばれての第一声では「EUとの交渉をまとめることで英のEU離脱を成功に導く」と「人々に強い決定権(コントロール)を与えることで国内の統一をはかる」を強調している。

メイ新首相が7月13日に行った就任スピーチのコピーを入手したので、帰りの電車で読んでいて感動した。格調の高い名演説だ。スピーチライターの世界を描いた原田マハ著「本日は、お日柄もよく」を思い出した。以下はスピーチの抜粋。

「もしもあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりもずっと大変な人生でしょう。あなたが仕事についているとしても、いつまで仕事があるか心配していることでしょう。あなたが持ち家に住んでいるとしても、これからのローンの返済がどうなるかを心配していることでしょう。あなたがなんとか日々の暮らしをやりくりできているとしても、生活費をまかなうことや子供たちをどうやって良い学校に入れようかということで思案していることでしょう。私はそんなあなたがたに、直接呼びかけたいのです。あなたがたが昼夜働きつめていて、ベストを尽くしていて、それでも時折うまくいかないこともあることを私は知っています。私が率いる政府は、少数の特権階級ではなく、あなたがたのことを優先することによって運営されるのです」(原文より抄訳)

揚げ足取りで恐縮だが、メイ首相の就任スピーチを紹介している大手A新聞が以下の部分を誤訳していた。

「もしあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、ウェストミンスター(ロンドン中心部)の人よりも人生はずっと大変でしょう。」(A新聞訳)
これは「than many people in Westminster realize」の箇所の訳だ。訳した人は「ロンドン中心部に住む富裕層よりも」という意味にとったようだが、この意味ならお洒落なチェルシーやハロッズのあるメイフェアのほうがピンとくる。ウェストミンスターは国会議事堂の所在地だ。ビッグベンの大時計のある建物がそびえ立つ辺りだ。このスピーチの主要メッセージは弱者目線からの新しい政治姿勢を訴えることなので「多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりも」と訳すべきところだ。

 

「キルギス人と日本人は兄弟」という説がある

キルギス駐在時代の友人からショロ社の記事をシェアしていただいた。この記事に登場している社長さんとは何度もご一緒する機会があったので懐かしい。東北大震災の時に被災地にミネラルウォーターを届けてくださった人だ。文中に「もし必要があれば、震災孤児をジュマドゥル氏が自身の家族で受け入れることができるという表明を日本大使へ行った。社員の中にも受け入れに名乗り出る人々が相次いだ。」と紹介されている。

2011年3月にわたしはビシュケクのTVで津波と震災と原発事故の様子を見ていた。わたしも現地の友人から「放射能で大変なことですね。日本の家族や親せきが住むところに困ったらわたしのダーチャ(畑仕事用の山荘)を使ってください」と言われて感激した記憶がある。

キルギスには「日本人は魚が好きで東に移動したが、肉が好きで山に残ったキルギス人の兄弟である」というテーブルトークが好きな人がたくさんいる。古からの同胞である日本人が西欧をリードする産業技術を発展させていることに好感をもっている日本好きがキルギス共和国には多い。


 
 

2016年6月30日木曜日

英国のEU離脱をめぐる国民投票 英紙でニュースをフォローしてみた

英国がEUから離脱するか残留するかについての国民投票が6月23日に行われた。円とポンドの為替の動きが気になった。投票直前の世論調査がやや残留派有利ということで円ポンド相場は一時は160円に戻し、円ドル相場も連動した。それから数時間後に2008年のリーマンショックの時以来の急落となった。6月末の時点で138円をつけている。「金融センターとしてのロンドンと強い経済を維持するためには残留が必要」とする残留派も、「英国の主権をEUによって制限されたくない、移民問題やユーロ危機などで英国は独自路線をとりたい」とする離脱派も大先輩チャーチルを自分たちの味方だと考えていたようだ。

キャメロン首相は遊説先で「チャーチルは苦しい時にも欧州の結束を堅持した」と訴えた。離脱派のリーダー格である前ロンドン市長のボリス・ジョンソンは2014年に書いた「チャーチル・ファクター」という評伝の中で「EU懐疑派も親EU派のどちらもチャーチルを自分たちの側にいると考えている」、「チャーチルはNATOの例も米との同盟の例もあるとして、主権を制限されることについてはEU参加に限ったことではないと指摘した」、「チャーチルは欧州統合を当時のロシアなど対外的な脅威への防波堤として必要だと考えていた」と指摘していた。チャーチルが存命だったらどういう発言をすることになるのか本人に聞いてみたい。

開票が終わってみると、ロンドンなど都市部と地方の田舎部で分かれている「空気」について、中央の政治家たちはロンドン寄りの空気を読んでいたらしく、大波乱の結果となった。漁業者や国際化と関係のない仕事の人たちは経済的な理由での移民の急増やEUの無駄使いの話を聞いてEU離脱に傾くのは仕方がない。それにしてもEUの役割は多岐にわたるのでそれぞれの分野での影響を諮問委員会でまとめ、その調査結果を国会論戦にかけてから、国民投票で決めてもよさそうなものだ。こういうプロセスは抜きの大勝負となった。

新聞を読んでいて呆れたのは離脱に票を投じた人たちが「まさか勝つとは思わなかった」、「離脱の影響について、投票結果が出た後で初めて知った」などと発言したことだ。どうしてこんなことが起きるのだろうか? 昨年までロンドンに住んでいた時の週末の楽しみは自然豊かな公園散策と並んで朝のスタバか夕方のパブで新聞を読むことだった。質量共に豊かで週刊誌を読む以上に楽しい。仕事がらみや文化欄は堅い新聞で、世間話やゴシップは柔らかい新聞が充実している。「ザ・メール」という柔らかい方の新聞がある。EUから離脱という投票結果を受けて、この新聞が「離脱の影響」について特集したところ、「離脱」に投票した読者たちから「そんなこと聞いてなかった!」という投書が多数寄せられた。堅い方の新聞には両論併記してあったはずだが、読まれていなければ仕方がない。 

もう一つびっくりしたのは、威勢のいい演説で聴衆をあおった離脱派の政治家たちが、勝利した途端に過激な公約を取り消そうとしたことだ。英国独立党のファラージ党首はEU離脱キャンペーンの目玉キャッチフレーズの一つだった「離脱すれば英国がEUに支払っている分担金をNHS(国民健保)に振り向ける」という公約について質問されると「そんな約束はしていない」と答え、引用した数字を訂正した。彼の投票前の発言は録画されていたので、失笑を買った。この人の場合はもともとそういうイメージなので「さもありなん」という感じだ。保守党内部でキャメロン首相に反対して、離脱運動を指揮したキャンペーン・マネージャーが「英国はEUを離脱しても移民労働者を受け入れるべきだ」とTVのインタビューに答えて反響を呼んだ。司会者は「投票前は反対のことを言っていたじゃないか」と抗議している様子が報道されている。

都市部のロンドンを中心に投票のルール変更とやり直しを請願する人が400万人を超えたそうだが、これでは無理もない。ヴァージン・グループを率いるリチャード・ブランソン氏のブログ記事を在英の友人がシェアしてくれた。離脱派が偽りの宣伝をしてきたことが明らかになったので再投票がなされるべきだという主張だ。その中にもう一つびっくりの指摘がなされている。「英独立党ファラージ党首が数か月前のインタビューで「残留派が僅差で勝った場合には再度の投票が必要だ。残留派は3分の2以上の差をつけて勝つ必要がある」と発言していた。離脱派のこの主張は今こそ、その逆のシナリオではあるが実行されるべきだ」。

英紙ガーディアンに面白い記事があった。古代ギリシャが都市国家だった時代に、アレキサンダー大王以来の軍事的天才と言われたピュロス(Pyrrhus)という王様がいた。新興のローマに攻め入り勝利したが、味方陣営も多大な犠牲を払った。それ以来、味方の被害も甚大な苦しい勝利のことを「ピュロスのような勝利」と呼ぶそうだ。同紙は国民投票の結果についての論説にこの表現を使い「ボリス前ロンドン市長はもちろん知ってるだろうけど」と皮肉っている。

英人の同僚たちとパブでビールを飲んだ時のことも思い出した。気風の良い人から始まって一人が全員の分を払うのが大人の作法だ。結果として皆で延々と全員におごり合うことになり、パブのお付き合いは長時間にわたる。この時にいつも払わないフリーライダーは「ずるい」やつなので自然に仲間から外される。相対的に景気の良かった英国はEUというパブに入って「みんなで一緒にやろうぜ」という時に、飲み代の分担の話を持ち出したことはこれまではなかった。2010年頃からユーロ危機が顕在化し、昨年あたりから議論されている難民問題が実はEU拡大の頃からすでに存在していた経済移民の問題と不可分であることに気がついた頃から、「英国の割り勘負け」状態を懸念する人々の数が急増したのだろう。もともと格差の大きい英国社会の内部でも「強くて景気の良い英国」を実感できない人たちが増えたことが、今回の投票結果の背景にある。

2016年6月20日月曜日

「サラセン人の麦」って何?

去年の暮れに渋谷で「リバプール美術館 ラファエル前派展」を観た時に「サラセン人の娘」という題名の絵があり、久々に「サラセン」という言葉に触れた。それがきっかけで調べてみると、現在ではこの言葉は使われないという説明を見つけた。「アッバース朝イスラム帝国」ならば良くて、当時の欧州人が使っていた西側の言葉は良くないということらしい。そういう理由での地名の変更は他にもたくさん例がある。インドの街の名前がたくさん変わった時もびっくりした。若い頃のバックパックの旅の思い出につながるのは古い地名のほうだから、それが消えてしまうのは寂しい。

「サラセン人の麦」も珍しいので残してほしい言葉だ。2年ほど前にフェースブックで欧州言語同時翻訳ソフトという優れものが紹介されていた。面白いのでしばらくはキュウリ、ピーマン、紫陽花などの名前の変化と分布を眺める一人遊びにはまっていたことがある。蕎麦は英語ではbuckwheatと言う。これを翻訳ソフトに入れると仏語で「サラセン」、露語で「グレチカ」などと出てきた。この時に出てきた「saracen」というローマ字を読んだ時は、日本の更科蕎麦(sarashina)を食べた人がフランスに外来語として持ち込んだのかなと思った。ググって見ると中国原産の蕎麦がサラセン帝国経由で欧州に広まったとある。

蕎麦は昔から好きだが、仕事で中央アジアに長い間住んだ時に蕎麦の美味しさを再発見している。キルギス共和国の首都ビシュケクに駐在していた時の職場にキッチンがあった。お昼になるとロシア人のおばさんが腕を振るってくれた。この時に付け合せとして頻繁に登場したのがグレチカだった。東西の食べ物の類似はとても面白いので、他にもブログで書いている。


 

2016年6月14日火曜日

キュウリとガーキンの違いについて

ロンドンの金融街シティの風景として登場することの多い丸みを帯びた高層ビルはガーキン(Gherkin)という愛称で呼ばれる。辞書を引くと「ピクルス用の若いキュウリ」とある。そのままキュウリと訳してはいけないのだろうか?しばらく前にフェースブックで欧州多言語翻訳ソフトという優れものが話題になったことがある。このソフトを使って英語の「キュ-カンバー(cucumber)」をチェックしてみると独語で「グルケン」、露語で「アグリエッツ」と出てくる。

「ガーキン」という言葉は東欧・旧ソ連地域でキュウリを示す言葉の中の「グル」や「グリ」の音に似ている。冬の厳しい地域で保存食であるピクルスをよく食べることは独語圏のウィーンに住んだ時の記憶とも、仕事で冬の旧ソ連圏の国々を訪れた時の記憶とも合致する。訪れた街角のレストランで前菜やサラダのメニューの中にピクルスの盛り合わせがあるかチェックすれば明らかだ。

わたしは酢漬けのトマトもキャベツも大好きだ。キュウリのピクルスも好きだが、これはこりこりしていないと美味しくない。「ふーむピクルスのキュウリはロシア系とかドイツ系の友人の家のパーティで食べたのが美味しいなあ。だからこれはキュウリとは違うんだ。ガーキンでなければ」というふうに英語圏の人たちがいつもとは違う言葉を愛用するようになっても不思議ではない。

http://www.ukdataexplorer.com/european-translator/?word=cucumber