2025年2月27日木曜日

写真と音楽 中藤毅彦写真集「Down on the Street」ギャラリートークから

ジェームズ・ボールドウィン(James Baldwin) が1961年の暮れに書き上げて、翌年に発刊された"Another Country”は初めて読み通す体験をしたペーパーバックなのでこだわりがある。1985年頃のことだった。このペーパーバック版との出会いについては「好きな本」のブログに書いているので省略する。日本では1969年に集英社の「現代の世界文学」シリーズの1冊として野崎孝訳「もう一つの国」という題名で刊行された。こちらも2016年頃に入手して愛蔵している。

写真家中藤毅彦さんのギャラリートークの鼎談を品川の会場で拝聴していると、ボールドウィンの名前が聴こえてきた。「一番イイ所ヲ奪ッテイキヤガッタクセニ、残リモ奪ッテイキヤガレ」。壇上の3人の先生方の間ではよく知られた話題らしく、それが詳述されることはなかった。それから数日の間「森山大道ー中藤毅彦ーJames Baldwin」などで検索をかけてみたけれどヒットするものがなく、謎だった。

諦めかけていたら、中藤先生がシェアされたyoutubeの中で答を見つけた。写真専門学校時代の師匠だった森山先生が中藤先生の最初の写真集「Enter the Mirror」(1997年)に寄稿した序文の中で引用された言葉だった。「もう一つの国」の第一部の主人公であるルーファスが吐き捨てたセリフだと書いてある。いったいどういう文脈になるのだろう。まだ20代の愛弟子の初写真集を推薦している序文の中で、どういう意味を持つのだろう。ちょっと謎のように感じた。

このセリフが数日頭の中を巡っていた。ハーレムの黒人という設定に沿った荒っぽい口調の訳文に惑わされてしまったが、この文章の内容には記憶がある。"You took the best. So why not take the rest" は ”All of Me”の歌詞の一部である。コロナ禍の前にしばらく通った音楽教室で何度も歌った課題曲だったので鮮明に覚えている。1931年に作られたジャズのスタンダード曲で、ルイ・アームストロングも、ビリー・ホリディも、フランク・シナトラも歌った名曲だ。

本棚からペーパーバックを取り出して引用箇所を探してみた。第一部第一章の終わりに近い部分だった。原文のフレーズは斜体になっていて引用であることはわかるが出典の記載はない。集英社版だとひらがながカタカナになっている。わざわざ言及しなくともよいほどに世間で知られた歌の文句ということだろう。別れた相手に「どうせ心を奪うのなら私を丸ごと奪ってほしい」という切ない気持ちを描いた名曲である。

森山先生の序文は「Enter the Mirror」の作風について「絶望」をキーワードとして論じている。絶望と情熱は一枚のコインの裏表である。写真集の作者の情熱を称えた文章とも読めそうだ。中藤先生のyoutube解説によれば、新作「Down on the Street」と、20代でまとめた「Enter the Mirror」には重要な共通点がある。新しい写真集を読み解くにあたって、かつて森山先生が寄稿された文章を読んでみるのは意味がありそうだ。

1 件のコメント:

  1. 絶望と情熱は隣り合わせ…、その真中にある激しい渦と濁流が中藤さんの写真を撮るエネルギーなのでしょうか。
    壇上の会話のフレーズを捉えて、そこから辿って視えてきたものが新鮮です。きっと壇上では“森山大道”という名を聴衆の前で出さないのは暗黙の了解である御三方。会場の多くの人はスルーしていたフレーズですね。

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