2015年9月23日水曜日

モンゴルの砂漠と阿部さんのこと

阿部さんから許可をいただいたのでこの素敵な写真をシェアしている。阿部さんは今モンゴルで活躍されている。モンゴルのゴビ砂漠での写真だ。わたしも中央アジアに関連した仕事が長かったので、阿部さんがアルマーティで勤務されていた時に仕事でお目にかかっている。その後で同じ高校の同窓生であることを知ってびっくりした。それからときどき読んだ本などの情報を交換させていただいている。この写真を見た時にすぐ思いついたのは宮本輝「草原の椅子」で主人公が寄せ集めの新しい家族(候補)と新しい友人の4人で生き物を寄せ付けない死の砂漠に旅をする場面だ。ご本人に確認してみるとやはりそういう気分でポーズしていたらしい。しみじみとした人生後半からの再生の物語だ。わたしも行ってみたくなった。

宮本輝の作品を集中的に読むようになったのは「ひとたびはポプラに臥す」というシルクロード紀行を読んだのがきっかけだ。1997年から2000年にかけて全6巻が完結した長編だ。「月光の東」(1998年)にも中央アジアにからんだ話が出てくる。ロンドンの書店で「草原の椅子」(1999年)を取り寄せてもらっている間に、「愉楽の園」(1989年)、「睡蓮の長いまどろみ」(2000年)を読んだ。1997年のシルクロードの旅以降の宮本作品の中でも「草原の椅子」は読み応えがある。カラコルム渓谷の中に位置するフンザの追憶から始まり、再訪の旅で終わるこの本を読んで行ってみたくなった。主人公がフンザを再訪する直前に瀬戸内の海を眺めながら携帯でヒロインに電話する場面がある。砂浜に寝ころんで母の思い出につながる中原中也の詩を諳んじる場面が良い。

素敵な写真を座右において眺めながら 「いつか行ってみよう」 と考えながら生きてみたというテーマの詩がある。井上靖が書いた「比良のシャクナゲ」だ。大学を卒業して新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の井上靖の心境がよく現れている詩だ。勤め人として日々の仕事や人間関係で鬱屈を感じたであろうこの人は、疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出す。そうすることで少しだけ気持ちが楽になって 「もう少しだけ耐えられる。嫌になったら何もかも放りだして比良の山奥に行ってしまおう」 という思いについてがこの詩の前半だ。それから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。井上靖は中期以降はシルクロードと中央ユーラシアに興味を持って様々な小説を書いている。宮本輝も井上靖を尊敬していて、一度対談もしている。作家としての中期から中央ユーラシアをテーマにした小説を書いている点でもこの二人の作家は共通している。

「難民」が問題なのか?「移民」が問題なのか? 言葉の選択で終わる話ではない

7月の末にドーバー海峡トンネルの向こう側のフランスの港街カレーでフェンスを越えて英国へ向かおうとする人々について、英首相が「移民の群れから国境を守る必要がある」というコメントを出した。「群れ(swarm)」という表現を使ったことが批判されたが、英首相の意見に同調する人は多かった。8月になってBBCはこれまでの難民報道について「移民」という言葉を使ってきたことについて「どういう単語を択んだかではなく、どういう姿勢の報道がなされたかが大切だ」と釈明コメントを出した。その後溺死した難民の少年の写真が新聞に掲載されると英国の難民問題についての世論は様変わりした。

シリアや北アフリカから欧州への難民問題が、この夏に突然始まったことではなくて2011年のアラブの春以降の地中海・北アフリカ地域の不安定化の後で深刻化してきた問題であることを理解することは重要だ。それと同じくらいに、東欧・旧ソ連地域からの移民問題でEU地域が20世紀の末から揺れ動いてきたことにも注目する必要があるはずだ。1998-2000年に始まったEU加盟交渉を経て中欧・バルト地域の8か国がEU加盟したのが2004年だった。3年遅れでブルガリアとルーマニアがEU加盟を果たしたのが2007年だ。この時以来EUの拡大の動きは止まり、トルコ、クロアチア、マケドニア、アルバニアは加盟候補国になって10年近く経過したままだ。このEU拡大の動きを止めたのはEU諸国内部での移民問題についての不安の高まりだった。

ロンドンでも東欧からのホームレスの人々の問題が何度も取り上げられた。昨年11月にパリを訪れた時に同行の友人が地下鉄でひったくり被害にあったが、目撃していた仏人乗客の証言によれば犯人たちは東欧系の言語を話していた。その後の滞在でもパリの治安が悪化しているのにはびっくりした。現在の難民問題についての議論でEU諸国の立場が分かれている背景を理解するためには、問題が2011年以前から存在していることにも注意を払う必要がありそうだ。
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-34332759?ocid=socialflow_facebook

2015年9月20日日曜日

加藤節雄ロンドン写真クラブ 2015年9月例会のテーマは「逆光」

2015年9月の加藤節雄先生のロンドン写真クラブの課題は「逆光」。7月にこの課題が発表された時にこれはうれしいと思った。去年の秋から近所のチズイック庭園、キュー橋付近、リッチモンド公園で撮りためてきた写真でこの課題に該当する写真がたくさんある。提出した写真は去年の秋からの単身赴任暮らしで、2匹の犬を散歩させながら撮影した思い入れのある写真ばかり。今年8月始めの引っ越し荷物の整理でロンドンに戻っていた妻と一緒に訪ねたリッチモンド公園の夕暮れ時の鹿の写真を今月の優秀作品に選んでいただいた。大英博物館の近くにある日本レストラン「アベノ」でこの写真と他の作品3点が次の月例会まで公開されるので、そちらもご覧ください。

2015年9月例会のベスト作品に選ばれた写真
ベスト作品に選ばれた写真と最後まで競ったキュー橋の写真
上記2枚以外の応募作品






2015年9月15日火曜日

在英都道府県人会対抗・親睦ゴルフ大会 ロンドンの友だちの輪

日曜日はバッキンガムシャーGCで108名の競技者の参加による在英都道府県人会対抗・親睦ゴルフ大会に参加した。第1ホールで大叩きの後でもち直し、後半の途中まで気分よくプレーした。終わり4つのホールで集中力が切れたが、久しぶりに納得できるラウンドだった。18H左脇の池に睡蓮が咲いていた。わたしはタシケント勤務時代にゴルフにはまっていたが、その次の勤務地だったスコピエにゴルフ場が無かったので熱が冷めた。今でも近所のデュークスメドウズの練習場で、ショット練習はしている。しかしゴルフというのはボールを打って終わりではない。実際にラウンドしていないとコースマネジメントとアプローチとパットの感覚を忘れてしまう。熱中していたタシケント時代のようにはプレーできないが懐かしいので、今回のようなゴルフ大会があると参加している。

ゴルフ大会の結果発表の前にゲストのシンガーソングライター鈴木ナオミさんの新曲「息吹」のお披露目があった。この歌は9月19日にトラファルガー広場で開催予定のジャパン祭りのテーマ曲として製作されている。音頭ヴァージョンとロックヴァージョンの二つあるそうだ。先日の「ロンドン題名のない音楽会」の主催者であるN先生の掛け声も入っていて、とても楽しい歌だ。ロンドンで活動されている鈴木さんの名前は、今年の3月のNHK-BSの放送録画をYoutubeで観て知った。リアルでお目にかかれたので、この歌のCDにサインしてもらった。このCDの録音にはロンドンで活躍する津軽三味線奏者の一川響さんも参加している。昨年の12月にチェルシーの和食レストラン「夢の木」で演奏会があったのを聴きに行ったのが懐かしい。

この三味線の演奏会でお会いした人たちのご縁で一金会という会に入れていただいた。様々な場所を選んでの月例懇親会だ。ロンドンの在留邦人の集まりが面白いのは一つの会で仲間に入れていただくと、そのメンバーの中の一人二人から紹介されて、さらに別の会合を知ることだ。結果として英国新潟県人会と大学同窓会の他に、一金会、フレミングス会、写真クラブ、ロンドン勉強会、声楽研究会、ピカデリーのワイン&音楽の会に参加させていただき、ロンドン滞在最後の年を楽しく過ごすことができた。IT革命以前の途上国勤務時代にはごく限られた数の現地在住の人たちと付き合うだけだった。自宅と職場関係の場所を往復するだけの絶海の孤島状態だ。今年になって突然にお仲間が増えたことでカルチャーショックも感じたが、今年の秋に25年ぶりに日本に戻ることに向けたリハビリにもなった。仲間に入れていただいた皆さんに感謝している。


在英都道府県対抗・懇親ゴルフ大会

新潟県人会 夏の陣

ロンドン題名のない音楽会

津軽三味線演奏会

一金会ディナー at National Liberal Club



ロンドン南西部 チズイックの文学と芸術の史跡探訪

その1。映画にもなった小説「眺めの良い部屋」、「ハワーズ・エンド」、「インドへの道」などを書いたE.M.フォースターはターナムグリーンを眺めるフラットの住人だった。長岡高校同窓で気鋭の経済学者である依田先生によれば、フォースターはケンブリッジ大学キングスカレッジ出身で、著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズの数年先輩だ。共に学生の秘密結社「使徒会」に所属し、後に女流作家ヴァージニア・ウルフ等を加えて、ロンドンでブルームズベリー・グループを形成し、英国の文芸活動などに大きな影響を与えたそうだ。



その2。アイルランドの詩人で、ノーベル文学賞も受賞したイェーツは「ケルト妖精物語」や「ケルト幻想物語」でも知られている。この人も若い頃にチズイックの住人だったことを知って、この人にとても興味がわいてきた。地下鉄のターナムグリーン駅の北側にある通りの家だ。わたしは南側でターナムグリーンの近くに住んでいる。この人の詩に出てくる野ネズミもナナカマドも英国の秋の風物詩です。この詩人のプロポーズを拒絶し、その後の詩人の傾向に決定的な影響を与えたと言われる運命の女性と初めて出会ったのもこの家だそうだ。
  Autumn is over the long leaves that love us, 
  And over the mice in the barley sheaves; 
  Yellow the leaves of the rowan above us, 
  And yellow the wet wild-strawberry leaves.



その3。19世紀後半に活躍し印象派の先駆者と称されるカミーユ・ピサロはフランスの人だが、一時期ロンドンにも住んでコンスターブルやターナーなど英国の風景画家の絵を研究したそうだ。この人が住んでいたのが地下鉄ターナムグリーンの駅に近いバース通りだ。この通りは地下鉄スタンフォードブルックからベッドフォード公園に向かう線路沿いの北側にある。ピサロはこの周辺の風景画を何枚か書いている。
 

その4。俳優コリン・ファースと言えばもう説明の必要がないほど知られている。「高慢と偏見」、「ブリジッド・ジョーンズの日記」などで人気が出てから様々な話題作に主演している。この人が地下鉄ターナムグリーンの駅に近い寿司の名店「真琴」のおなじみであることは知る人ぞ知る事実だ。まだ有名でなかった頃は店内でも食事をしたそうだが、今はテイクアウトだけ。今でも月一くらいで来店していると、真琴のおかみさんから教えてもらった。真琴は駅の線路の南側にある。ファース氏が住んでいる辺りは北側の豪邸地域だ。この辺りはその昔特別に開発されたところで歩くとすぐにわかるが、三階建てくらいの赤レンガの建物がベッドフォード公園を中心に広がっている。


ロンドン「題名のない音楽会」で懐かしい歌に再会した

先日の「ロンドンの題名のない音楽会」で、伝説の声楽研究会メンバーのMさんがカンツォーネを歌った。2度ほど参加させていただいた月例会でこの人の美声と歌唱力は知っていたので楽しみにしていた。音楽会での歌唱はキーボード伴奏が中心だったがMさんはアカペラだった。イントロでの曲の解説も良かった。カンツォーネの名曲でボチェリ、ドミンゴ、パヴァロッティなどがそれぞれコンサートの持ち歌にしていたということだった。地下鉄グリーンパーク駅の近くにあるレストランの地下室を借りた会場に流れた歌声に耳を傾けた。びっくりした。タシケントで半年ほど歌の先生についてヴォイス・トレーニング付きの稽古をした時の練習曲の一つだった。2004年の話だ。その時に習った「ソレントへ帰れ」が良く知られているのは承知していたが、この「わすれなぐさ」という邦題のついている歌がこんなに有名だとは知らなかった。

エフゲニー先生のレッスンは「楽しみながら声を出すのが第一」なのでジャンルは自由だった。ジャズやポップスのスタンダード曲は英語で習った。「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」、「ミスティ」、「ムーンライト・セレナーデ」など懐かしい。さらにカンツォーネ数曲をロシア語で習った。楽譜に書かれている歌詞の意味が分かろうが分かるまいが先生と一対一で、口真似で習っていくのだから関係ない。美しい曲だということは耳でわかる。先生はタシケントの音楽学校の先生で生徒を集めて定期発表会をしていた。「だいぶ声が出るようになってきたね。次の発表会に出てみたら?」というコメントをいただいたのはタシケントを離れる直前だったので、カンツォーネ曲でのステージデビューは夢のままとなってしまった。タシケントを離れて、スコピエに転勤したのは2004年の11月のことだ。その後は先生について歌を習う機会はなかった。ほとんど忘れかけていた歌にロンドンの題名のない音楽会という集まりで出会うなんて思いもしなかった。タシケントとロンドンが一気につながるような気がした。

ロンドンの「題名のない音楽会」がこの時期に開催される理由の一つは9月後半にロンドンで「ジャパン祭り」が開催されることがある。そこでイベントの一つとしてのど自慢大会が開かれる。予選を勝ち抜いたか、ワイルドカードを手にしたかどちらか15人の皆さんがトラファルガー広場に特設された舞台の上で歌声を披露する。聴衆の数は、熱心かどうかはさておき、その場にいる人を合計すれば一万人を越えるはずだ。最近2度ほど参加させていただいた声楽研究会のメンバーの人たちもこののど自慢に個人もしくはグループで参加してきた。それでこの題名のない音楽会がジャパン祭りの前哨戦の意味を持つようになった。歌の練習に興味を持つ人のみならず、ロンドン在住のプロの演奏者の方々がゲストとして参加してくれたのて、とても楽しく聴きごたえのあるコンサートだった。

2015年9月1日火曜日

焼き立てのチーズパンの匂い

最近ジョージアのハチャプリや、東京の「ピッツァ・マルゲリータ」のことがフェースブックで話題になった。チーズ入りのバゲット、ジョージアのハチャプリ、ピッツァ・マルガリータに共通しているのは小麦とチーズが溶けたか、焦げたかの熱々の状態を食べる旨さだ。余計なものと一緒にしないで、それだけ食べるのが美味しい。

子供の頃、学校の給食に出てきた三角形のチーズを食べても、たまに家で長方形のチーズを食べても美味しいと思ったことがなかったが、郷里長岡の大手通りにあったボン・オーハシのチーズ・パンは特別だった。一センチ四方の立方体のチーズがこんがり溶けてフランスパンの表面にあったり、白いパンの中に隠れていたりするチーズ入りバゲットはとてもお洒落で美味しい食べ物だった。

30代の終わりくらいに仕事でコーカサスの国を訪れた。ジョージアの「ハチャプリ」はワインと料理の食卓の前菜としても出てきた。「ハチャ」はチーズのことで、「プリ」はパンだ。一番美味しかったのは、散歩していた見つけたハチャプリ屋の焼き立てだ。日曜日に通りを散歩しているとお昼時になった。おばさんが大きな声で叫んでいた。「ハチャプリ、ハチャプリ!!」。何事かと思ったら、パンを窯から出したので、熱々のものを食べろと訴えているらしい。何人かの人と一緒に列に並んで食べてみた。その後、機会があるたびにジョージアン・レストランで試してみたが、そのおばさんの売っていたハチャプリ以上のものを食べたことがない。

英語圏でのピッツァ原体験ともいうべき記憶がある。1986年の5月に生まれて初めて踏んだ海外の土地がシカゴだった。英語研修先のニューヘイブンを目指す途中で、友だちのT君が入れ替わりにシカゴを離れるところだったのでお邪魔することになった。学生結婚の日系アメリカ人の奥さんはまだ引っ越しの荷造りで忙しかったので、T君と二人で近所のピザ屋に行った。なんだかきらきら輝いて見えた。当時のわたしにとってアメリカは憧れの国だった。3年がかりの努力が実ってようやくアメリカ大陸の土を踏んだのだった。ウエートレスのおねえさんたちがカッコ良かった。気を良くしたわたしは「注文してくるよ」とカウンターに向かった。そこからの展開が予想しないものだった。英語が通じないのである。しばし呆然とした。仕方がないので適当に調子を合わせてから席に戻った。この時以来、アメリカのピザはキラキラ輝いているが不可解な世界を象徴するものになった。

フェースブックでピッツァの話題に参加している人の多くが「ピッツァ・マルゲリータ」と書いているので、違和感があった。調べてみると、どうもそれが多数派のようだ。お洒落なお店の日本語・イタリア語メニューとかに精通されている人にとっての日本語表記は「ゲ」なのだろうが、英語圏でピザに目覚めたわたしにとっては「マルガリータ」しかあり得ない。これは実はどちらでもいいことだ。その音にアクセントがない場合には「ガ」でも「ゲ」でもない。軽い鼻濁音なので実はどちらでもないのが正解だ。

蛇足ながら、イタリアのピッツァとNY,シカゴ、フィラデルフィア辺りのピザと似て非なるものだという考え方がある。アメリカでイタリア移民によって広まったこの食物が当初「トマト・パイ」と呼ばれたという記録もある。現在ではトマト・パイはピザの一種と考えられているようだ。古代からユーラシアに広く分布する窯焼きフラットブレッド (インドのナンが有名だが、これは中央アジア、コーカサスでも似通ったものがある) が、イタリアのピッツァの始まりらしいが、ソースのトマトや、トッピングのペッパーは新大陸原産なのでコロンブス時代以降にイタリアに伝わっている。第二次大戦後のパックス・アメリカーナの時代になって、「イタリア風アメリカン・ピザ」 が世界に広まる以前には、世界各地で小麦粉を平らにして、チーズを乗せて焼く様々な食物が存在していたようだ。

楡の木の思い出

この写真の屋根が素敵な教会はElmwood Road(楡の木通り)という通りにある。ロンドンの加藤節雄先生の写真クラブの7月例会のテーマが「屋根」だった。いろいろ苦心したがなかなか面白い写真が撮れなかった。作品提出の締め切りも近ついてきたある日、この道を散歩しているとこの教会の屋根が目に止まった。この月の佳作に入れていただいた。

日本を離れる前の1989年頃に、ユージン・オニール作「楡の木蔭の欲望」というお芝居を東京で観たことがある。1988年にアメリカから帰国していたので、懐かしい気持ちと、どのくらい英語の芝居が理解できるかの腕試しの気持ちもあって観に行った。ほとんど理解できなかったので口惜しかったのだと思う。それからこの人の名前はずっと覚えている。いつかもう一度観直してみたいと思っている。あれから四半世紀の海外暮らしなので今度は大丈夫だと思いたい。

ユージン・オニールと言えばもう一つ想い出がある。映画「レッズ」で主役のウォーレン・ベイティとヒロインのダイアン・キートンにからむ重要な役をジャック・ニコルソンが演じた。それが劇作家ユージン・オニールの役だった。彼は「世界を揺るがした10日間」を書いたジョン・リードの友人でありながらそのパートナーであるヒロインに恋をする。ロシアに行ったまま帰ってこない恋人を待つヒロインは、寂しさと自分が何者なのかというあせりから、自分に関心を持ってくれるユージンと付き合ってしまう。忘れたいと思った恋人が戻ってきてしまうと、彼女はユージンに別れを告げる。傷つく男心を演じたジャック・二コルソンの渋さが印象的だった。

楡が出てくる歌と言えば、舟木一夫の「高校三年生」という歌がある。「赤い夕陽が校舎を染めて 楡の木蔭に弾む声」と歌っている。いい歌だ。もう一つ付け加えるとわたしが生まれた鴉ケ島という土地の最寄の駅が栃尾鉄道の楡原だった。楡には縁がある。