2015年8月1日土曜日

長岡の大花火といくつかの思い出

8月2日と3日は、郷里長岡で日本一の大花火大会が開かれる。去年は帰省していたので24年ぶりの大花火だった。高校の同級生のA君と一緒に東京からかけつけた。長生橋の川べりからの鑑賞だった。あまりの美しさに息を飲んだ。長岡大花火は北越戊辰戦争、長岡大空襲、中越大地震と幾多の困難を乗り越えては不死鳥のように甦ってきた長岡一円の地域の先人たちのご苦労を偲び感謝を捧げる鎮魂の行事だ。平原綾香さんの歌声が花火会場に流れると胸に迫るものがあった。

1990年の8月に観た時は、その直前の6月に11年勤めた会社を辞めたばかりだった。予定があって辞めるつもりだったのが、思い通りに物事が進まず先の見通しが不透明になっていた。長岡の花火から戻ったら新聞記事で見つけた就職口の面接が予定されていた。この時はつれあいともう一人、高校同級生のN君が一緒だった。花火を観た後でビールを飲みながら、会社を辞めたこと、それがまだ親に内緒にしてあること、新しい仕事が決まっていないことなどを話していると、びっくりしたN君が 「少しやり方が乱暴じゃないか?親にも内緒というのが怪しからん」と言って怒り出した。心配してくれる友達の言葉だった。

N君の言葉がこたえたこともあって、ビールをかなり飲んだと思う。花火大会の後で大分夜も更けていた。つれあいと長岡駅に向かった。疲れたので駅前のタクシーの列に並んだ。当時まだ元気だった見附の父に遅くなったことを電話しなければならないと思った。長岡駅の構内にハンバーガーショップがあった。赤電話が見えた。つれあいに「ちょっと電話してくる」と言って、赤電話に向かって駆け出した。その途端に大きな衝撃があって、何が何だかわからなくなった。気を取り直すとつれあいが助けを申し出てくれた看護士さんと話している声が聞こえた。「出血しています。ガラスに突っ込んで頸動脈が切れたかも知れないです」。助けを申し出てくれた看護士さんは「それでは手の打ちようがありません」という会話を記憶している。その内に救急車がきて、病院に運ばれた。

幸いなことに大事には至らなかった。眼鏡のフレームが傷ついていたのでそれが代わりになってくれたらしい。それでも左のこめかみの辺りがパックリ切れた。今でも薄く傷痕が残っている。翌々日は東京で新しい仕事の面接だった。面接官の人たちはものものしい包帯にびっくりした顔だった。なんとか採用面接を通り、その秋に4ヶ月ほどお世話になった。後から聞いた話では 「前の会社を辞めたのも、上司を殴ったり、誰かと喧嘩したりしたせいではないか?」 と心配する人がいて、採用するかどうか意見が分かれたそうだ。それほどの苦労をしての再就職だったが、その年の秋が深まり11月になると、白紙に戻ったはずの海外就職の話が本決まりになった。年が明けて1991年の1月に日本を離れたのが、現在まで続く海外生活の始まりとなった。長岡の大花火というとなにやら厳粛な気持ちになる。














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