夏目漱石は1900年の夏から2年間のロンドン留学中に下宿を何度も変えている。ようやく落ち着いた5軒目の下宿と、その向かいにある漱石記念館は地下鉄ノーザン・ラインのクラパム・コモン駅の近くにある。訪ねてみると漱石に関する様々な資料が展示されていていくつもの発見があった。わたしは2度の駐在勤務でロンドンはよく知っているつもりだった。英国新潟県人会の集まりがメンバーのSさんの家で開かれた時にこのクラパム・コモン公園の横を通ったことがある。ヴィクトリア駅は長距離列車の出るターミナル駅なので何度も乗り降りしている。チェルシー橋はバタシー公園の脇にあるので何度も眺めたことがある。その公園で漱石が自転車の練習をしたこと、船旅で英国に上陸した漱石がヴィクトリア駅に降り立ったこと、チェルシーにあるカーライル博物館への途中で橋を渡っていたであろうことは知らなかった。
漱石の下宿からチェルシー橋まで歩いてみた。徒歩で20分ほどの距離だ。漱石が訪問記を書いたカーライル博物館は、西の方向に川沿いに10分ほど歩いたアルバート橋のたもとにある。チェルシーはテムズ川の北岸にあり、ロンドンの繁華街ケンジントンやナイツブリッジにも歩いて行けるお洒落な街だ。漱石は、この博物館を友人で味の素を発明した科学者として知られている池田菊苗博士と共に訪れたことを随筆に書いている。2011年の暮れに2回目のロンドン勤務を始めた時に地下鉄スローン・スクウェア駅やキングス通りに近い短期滞在用フラットに2か月ほど住んだ。そこからすぐ近くだったのに行きそびれてしまったので気になっていた博物館だった。「カーライルの家」というナショナル・トラスト作成のパンフレットによると、1795年生まれのトマス・カーライルは19世紀のヴィクトリア時代の英国を代表する歴史家・評論家である。パンフレットには文豪ディケンズやサッカレーがカーライルを讃えた言葉が引用されているが、漱石の訪問のことは記載されていない。「夏目漱石先生関係の展示物はないでしょうか?」と博物館の人に聞いてみた。案内の英婦人は笑顔になり、引出しの中から手製のクリア・ファイルを取り出して見せてくれた。同じような質問をする日本人の訪問者には慣れている様子だ。このファイルは漱石のカーライル博物館訪問に関しての日本の新聞に掲載された記事のコピーなどを一冊にまとめたものだ。後ろから「知らなかったわ」と日本語の声がした。観光客らしい二人組のご婦人だった。
この漱石関係ファイルを手に取って眺めるとカーライルと日本の関係についてまとめた論文のコピーがあった。それによると「フランス革命史」他の著作のあるカーライルは、数年がかりで仕上げた草稿を批評してもらう目的で友人に貸し出したところ、手違いで紙屑として焼かれてしまう。さすがに落胆するが、やがて気を取り直してもう一度原稿を書き上げる。不屈の意志で事を成し遂げた人として日本に紹介されて有名だったとある。このエピソードは中村正直がサミュエル・ジョンソンのオリジナルを和訳した「西国立志篇」によるものだそうだ。1870年に出版されたこの本は明治時代のベストセラーだったようで、高校の日本史の時間に習った記憶がある。ウェブサイトをチェックすると内村鑑三が1898年に書いた「後世への最大遺物」の中でも同様のエピソードが紹介されている。誰が間違えて草稿を燃やしてしまったのかについての詳細がやや異なっていることに気がついた。「イクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。」 (内村鑑三 「後世への最大遺物」 、青空文庫より抜粋)
漱石が1907年に朝日新聞に連載した小説「虞美人草」に、主人公で京都から東京へ出てきた青年が、かつて世話になって恩義のある井上老人から手紙をもらう場面がある。「拝啓 柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候(がしたてまつりそうろう)」(青空文庫より抜粋)。ここで使われている柳暗花明は「春の景色が美しい様子」という意味で、昔は時候の挨拶によく使われたようだ。南宋の詩人である陸遊の「山西の村に遊ぶ」という漢詩の一部である。ところがこの青年の心境はのどかな春の気分からは程遠い。恩人の先生の娘を妻に迎えることが正しい選択と考えつつも、古臭いしがらみに縛られるような気もして、板挟みの状態にあるからだ。東京という新しい天地で出会った自立心とプライドの強い近代的な女性にも魅かれてしまう。この状況を描いた小説に「四面楚歌」で有名な「虞美人草」という題名をつけるのは大げさな気もするが、昔はそういうものだったのだろう。
虞美人草はケシ科の一年草であるヒナゲシの別名である。麻薬の原料となるケシは越年草で背も高い。英語ではどちらもポピーとなる。漢字で雛罌粟と書く。この読み方としてはヒナゲシもコクリコもある。四面楚歌の状況に追い込まれた覇王項羽は「虞や、虞や、汝を如何せん」と思案にくれる。敗色の濃い戦の前線での話である。武人としては残りの手勢を率いて退路を切り開く仕事に女人を連れて行くわけにもいかないが、虞美人を残していけば敵軍の戦利品となるのは目に見えている。虞美人は味方の足手まといになることも、敵将の虜となることも潔しとせず、自死を選ぶ。その墓に咲いた赤い花が虞美人草と呼ばれるようになったという言い伝えがある。
漱石はわたしの郷里長岡に縁のある人だ。旧制長岡中学出身の松岡譲先輩は漱石門下の人で、その夫人は漱石先生の長女である。ヒナゲシを詠った歌人と言えば、与謝野晶子がいる。1912年の5月に、前年に渡仏していた夫鉄幹を追いかけてシベリア鉄道でウラジオストクから陸路で欧州へ向かったこの情熱の歌人は「君も雛罌粟、われも雛罌粟」と歌った。もう一人旧制長岡中学出身の先輩に詩人堀口大學がいる。この詩人は歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた。大學先輩の父であり明治時代の外交官の草分けだった堀口九萬一と鉄幹は友人だったことがこの詩人の回想録に出てくる。「虞美人草」の漱石と「君も雛罌粟」の与謝野晶子と明治時代に赤いヒナゲシの花をめぐる作品を書いた文人二人ともが長岡に縁があるのが面白い。長岡市の信濃川にかかる長生橋のたもとには与謝野夫妻の歌碑もある。この歌人が、雛罌粟の歌を詠んだ時に、愛とプライドのためなら死も怖れない虞美人を意識していたのだろうか?余談になるが昭和の時代にもヒナゲシはひたむきな愛を象徴するものとして歌われた。山上路夫作詞、森田公一作曲の「ひなげしの花」を歌ったのはアイドルだったアグネス・チャンだ。愛する者と別れても「愛の思いは胸にあふれそうよ」と訴えるひたむきさは虞美人と共通の心情だ。時代は変わっても、人の想いは変わらない。
ユーラシア大陸の反対側に位置する欧州でも、この花は失われた人々の赤い血の連想につながっている。ロンドンでも毎年の戦没者追悼の日には赤いヒナゲシの胸飾りが街にあふれる。第一次世界大戦が1914年に始まり、戦争は4年に及んだ。連合国側とドイツの休戦協定が発効したのが1918年の11月11日だ。事務所でもデパートでもこの日の11時には、戦没者をしのんで一分間の黙とうをささげるのが習わしだ。2014 年のこの日には開戦から100年を記念して、ロンドン塔の空堀の芝生が一面のセラミックの赤い花で埋め尽くされた。88万人を越えた英国の戦没者の数だけ用意されたものだ。このセラミック花は希望者に販売され、その売上げが戦没者・傷痍軍人関係のチャリティに贈られた。漱石が小説「倫敦塔」を発表したのはロンドン留学から帰国して3年経った1905年のことだ。第一次大戦が始まる以前のことである。小説に描いたロンドン塔の空堀が虞美人草で埋め尽くされるとは、漱石も想像しなかっただろう。ちょうど去年の11月の始めに長岡高校の同級生のA君がロンドンに来ていたので一緒に見学したこともあって、この光景は強く印象に残った。
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