2015年6月23日火曜日

ロンドンで東洋古美術に魅せられて

ロンドンの在留邦人の間にはいくつかの集まりがある。珍しいところで食事会をしたり、講師をお招きして話を聞くのも面白い。その会のメンバーが持ち回りで自分の職場のことや、ロンドンに来て以来の経験などを話すこともあるし、会員の知人が招かれることもある。いくつかの会合に出ているうちに清水さんにお会いした。バタシー公園で開かれた古美術・アンティークフェアがきっかけで、清水さんが、創立以来70年の歴史を持つ英国アンティーク・ディーラーズ協会(BADA)の唯一の日本人会員だということを知った。ギャラリーやアンティークショップの名店が立ち並ぶケンジントン・チャーチ・ストリートでアジアと日本の古美術のお店を経営されているので、お店の古美術品を見せていただいた。品揃えが素晴らしい。ため息の連続だった。お茶を飲みながらお話を伺った。

大学で英米文学を専攻した清水さんは、教員免許を取得し、英語教師として生きていく前に、英語力をブラッシュ・アップしたいと思った。英国に一年間留学することにした。通い始めてみると、どうも学校選びを間違えたらしいことに気がついた。日本の大学で英語の勉強をした清水さんにとっては、語学中心の授業は物足りなかった。せっかくのロンドン滞在を無駄にすまいと思ったのでせっせと好きな博物館に通うことにした。そんな時にロンドン大学付属のパーシブル卿財団の中国陶器のコレクションを観た。とても強く魅き付けられるのを感じた。
パーシブル卿財団のコレクションに毎日通い始めた。カタログを買って、その説明を読みながら、実物を見続けた。自分が目の前で見ているものについて、その道の専門家はどういう分析をし、どういう表現をしているか、それが自分の感じ方とどう違うのか?毎日通って徹底的に考えをめぐらせた。やがてこの財団のメドレー女史とも顔なじみになり、財団の図書館も使わせてもらえるようになった。

清水さんは九州の生まれだ。子供の頃に夏休みを伯母さんの家で過ごすのが楽しみだった。伯母さんの家は大分県にある禅寺だ。茶碗や花器などの陶器の他に、様々な美術品や骨とう品が置いてあった。伯父が品物を購入するお店の紹介でロンドンでの滞在先も決めた。ロンドンでギャラリーを経営されていた方に身元保証人をお願いしたので、そのギャラリーにもよく通い、サザビーズやクリスティーズなどのオークションにも連れて行ってもらうことができた。

ロンドンでの留学を終えて、1977年に日本に戻った。表参道に小さなお店を開いた。古美術好きの伯父さんのコレクションの売買を委託され、古美術品の売り買いをした。1-2割程度の利益が見込まれる商売だった。ロンドン仕込みの知識を駆使して古美術ショップを経営するのは面白かったが、やがて限界を感じた。東京のオークションは日本の古美術商たちが協力し合っていて、お互いの既得権を守る世界のように感じられた。新規参入するのは難しかった。徒弟制度の中で長い間修行をするのが日本の古美術業界のやり方だった。「若い女の子」がセンスとロンドン仕込みのノウハウだけでやっていける世界ではなかった。1979年に店を処分して、再び渡英した。自分の力を試せるビジネス環境を探そうと思った。本格的にロンドンで古美術の商いの経験を積むことも必要だと感じた。


ロンドンで部屋を借りての再出発だった。そこからは幸運の女神が味方してくれた。日本では80年代に向かってバブル景気が膨らんで行った時期だ。ロンドンの競売で仕入れた中国の古美術品を、「良い品」を探している日本の古美術商に転売すると、表参道で細々とお店をやっていた頃に比べると想像もしなかった規模の利益が上がるようになった。品物の価格は需要と供給のバランスで決まるので、バブル期の企業や個人向けの商売は順調だった。このバブルは1991年には終焉するが、それまでに清水さんは、英国で古美術商として生きていくための経験と資本を十分に蓄積することができた。

ロンドンでのビジネスが軌道に乗った頃に、英国人のご主人と知り合った。同じ業界の人だが、ビジネスモデルは違う。清水さんはお店を構えて、ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京のオークションで品物を仕入れ、各国の古美術商に売る「古美術卸業」一筋だ。ご主人は密教美術の専門家である。お店を構えずに、自由に古美術の産地である中国、チベット、ネパール、香港などを旅して、仕入れたものを長年の付き合いのある販売ルートに乗せるのが仕事だ。ご夫婦の間には子供が3人いて、今では清水さんのお店を手伝ってくれている。

ケンジントン・チャーチ・ストリートは、清水さんが初めてロンドンに来た時からの憧れの地だった。英国古美術商として成功し、「銀座通り」であるチャーチ・ストリートにお店を構えるのが夢になった。その夢を実現するために20年頑張った。この店は清水さんの古美術商としてのプライドを象徴するものだ。清水さんのご一家はお店の階上に住んでいる。これはセキュリティの点でも賢い方法だ。ケンジントン地域はウイリアム王子ご一家の住むケンジントン宮殿とケンジントン庭園に近い閑静な住宅地だが、教会のあるチャーチ・ストリートは昔から芸術家が住んだ通りだ。清水さんのお隣は精神分析で名高いフロイト博士の孫である画家ルシアン・フロイトのアトリエだった。

英国で古美術商として成功した清水さんの次の目標は、活動範囲を欧州大陸に広げることだ。清水さんは、ポーランドと日本の友好に古美術の面から貢献することに興味を持っている。ポーランドの古都クラクフに映画監督アンジェイ・ワイダが設立した日本美術技術博物館がある。その建物は建築家磯崎新が設計した。クラクフは第二次世界大戦の戦火を逃れた古都で美しい街並みが人気の観光地だ。ワイダ監督が1987年に稲盛財団の「京都賞」を受賞した時に、その賞金と、賛同する人々の募金と、両国政府の支援により計画が始まり、1994年11月にオープンした博物館だ。クラクフ国立博物館が所蔵したまま埋もれていた浮世絵などを中心とする日本コレクションを買い取り、公開している他に、日本とポーランドの交流を深めるための様々な催しが行なわれるスペースになっている。浮世絵の北斎漫画にちなんでか、この博物館は「マンガ博物館」という愛称でも呼ばれている。


清水さんは2014年1月にこのクラクフの博物館で、ポーランドで初めての「屏風展」を開催した。それ以来、支援を続けている。まだまだ夢を追いかける清水さんは元気で爽やかな人だ。






清水さんのお店「J.A.N. Fine Arts」のコレクションの一部は下記のブログでご覧ください。

http://kariyadagawa-london.blogspot.co.uk/2015/05/blog-post_25.html




2015年6月13日土曜日

コマドリ 英国を代表する鳥

6月11日の英紙タイムズに英国の国鳥を選ぶ投票の結果が発表された。鳥類学者で作家のデヴィッド・リンド氏がこの人気投票を組織した。郵送とオンラインに加え、学校に投票箱を設置するなどの方法により、20万人を越える人が投票した。米国にはハクトウワシ、フランスにはオンドリ、インドには孔雀、日本には雉など、それぞれ国を代表する国鳥が定められていて、記章やお札の図柄として使われている。日本では一万円札に登場する。英国に国鳥が無いのはおかしいと思ったことから、リンド氏はこの活動を始めたそうだ。投票の結果を踏まえて政府に正式な決定を勧告し、将来は記章などにその図柄を使うことを目指すそうだ。国鳥は、その国を象徴する鳥として国家機関が定めている場合や、日本のように学術機関が定めている場合など、国によってさまざまだ。投票の結果、トップ5の内の4種類はマザーグースに登場する鳥となった。もう一種類の鳥はビートルズの歌に登場する鳥だ。歌が人々の心に訴える力はすばらしい。

   1. こまどり(ロビン)34%
   2. めんふくろう 12%
   3. ブラックバード 11%
   4. みそさざい 9%
   5. 赤とび 6%

第1位のこまどりは小さな鳥なのであまり目立たないが、自然林のある公園などに行くと道まで降りてくるのでよく見かける。見慣れると顔から胸にかけてきれいなオレンジ色なのですぐわかるようになる。日本では、昭和の時代にこまどり姉妹という双子の歌手のペアがいた。英国のマザーグースの「誰が殺した、クック・ロビン」という唄は、英語圏のみならず、日本でも北原白秋が訳詩を発表して以来、様々な詩人や歌人が翻訳しているので良く知られている。


第2位のめんふくろうはお面をかぶったような夜行性の鳥だ。英語でbarn owlというのは納屋のふくろうという意味だ。農場などの納屋に巣をつくり、夜になるとネズミなどの小動物を捕まえて食べる。フクロウが書店のマークなどによく使われるのは夜も寝ないで本を読むと言う意味だろう。

第3のブラックバードは公園によくいる目立たない鳥だが、よく見るとくちばしが黄色で目が可愛い。オス鳥は黒だが、メス鳥は茶褐色だ。ビートルズが1968年に発表した歌にもなっている。ポールが作詞し、ジョンが作曲したとてもきれいな歌だ。


第4位のみそさざいは暗褐色の小さな鳥だが、その尾羽をピンと立てているのが特徴だ。小さい鳥が元気に尾羽を立てていることからのイメージなのか、小さなミソサザイが大きくて強い鷹と競い合ったり、鳥の王様になったりする昔話が日本でも、英国でも伝えられている。英国ではこまどりとみそさざいをペアとする言い伝えもある。

 The robin redbreast and the wren  胸が赤いコマドリとミソサザイ
   Are God's cock and hen.       神様が決めたつがいの鳥

第5位の赤とびは、名前の通り、白と赤褐色の羽毛の対比が美しい。英国では剥製にするために乱獲され、19世紀末にはイングランドとスコットランドから消滅した。20世紀の終わり頃になって、野鳥保護運動の象徴的な鳥となり、欧州各地から集められたヒナ鳥がイングランドとスコットランドの農村地帯に放たれたこともあるそうだ。


Who killed Cock Robin? (訳・谷川俊太郎)

誰が駒鳥殺したの?
わたし、とすずめがいいました
わたしの弓矢で
わたしが殺した

誰がお墓を掘るだろう?
わたし、とフクロウがいいました
すきとシャベルで
わたしが掘ろう

誰がお棺を運ぶだろう?
わたし、とトンビがいいました
もしも夜道でなかったら
わたしがお棺を運びます

誰が覆いをささげ持つ?
ぼくら、と言ったはミソサザイ
夫婦二人で
持ちましょう


Who killed Cock Robin?
I, said the Sparrow,
with my bow and arrow,
I killed Cock Robin.

Who'll dig his grave?
I, said the Owl,
with my pick and shovel,
I'll dig his grave.

Who'll carry the coffin?
I, said the Kite,
if it's not through the night,
I'll carry the coffin.

Who'll bear the pall?
We, said the Wren,
both the cock and the hen,
We'll bear the pall.

2015年6月9日火曜日

カレーと仏教遺跡と宝石 スリランカに魅せられた人々の話

今朝のフェースブックでスリランカのカレーが世界一美味しいという投稿を読んだ。「どこの国のカレーが最も美味しいか」というのは、「どこの家の味噌汁が最も美味いか」いう質問に似ている。おそらくは自分が経験したもので一番好きなものが世界一ということになりそうだ。つれあいが青年海外協力隊員としてコロンボ大学で働いていた時に、この国を訪ねたことがある。その時の印象から言うと肉でも、魚でも、野菜でもありとあらゆるものに何かしらのスパイスで「カレー」風の味付けがしてあって、味はどれも違っていた。コロンボを起点に当時のボンベイ(現在のムンバイ)、デリー、アグラ(タージマハルのある街)、カジュラホを経てネパールの首都カトマンズを訪れた。インドに戻りマドラス(現在のチェンナイ)経由でコロンボに戻った。スリランカでもインドでもレストランのビュッフェでは種類の豊富さに圧倒された。スリランカの第二の都市キャンディで途方もない辛さに涙を流しながら食べた「デビル・チキン」が懐かしい。

インド大陸各地ではスパイスたっぷりのこってりしたカレーが多いが、スリランカではさらさらしていた。さっぱり好みの日本の人に向いていそうだ。ただし辛い。つれあいの話ではいつもは町の気軽なカレー屋でランチ・パケットを買って食べていたそうだ。炊いた米とカレーがちょっぴりだが、とにかく安い。これは昔の日本で、塩辛い漬物や梅干しでご飯を食べたのと似ている。おかずが少しでもご飯が食べられる工夫だ。当時の駐スリランカ大使はご夫人の仕事の都合で単身赴任だったので、外食されることが多かったそうだ。海辺のレヌカ・ホテルのスリランカ・カレーは大使の気に入りだったと聞いた。大使のご夫人は若い頃に中国大陸で人気歌手として一世を風靡された人だ。昨年ご逝去された。「2001年宇宙の旅」などで知られるアーサー.C.クラークは、この国で晩年を過ごした。わたしのつれあいがシステム・エンジニアとして働いていたコロンボ大のコンピューターセンターの主任教授が、この作家と仲良しだったので、教授のお供で何度かお会いしたそうだ。この作家は具合の悪かった膝に負担がかからないように潜水を趣味にしていた。海の中の浮遊感が宇宙の小説を書くのに役に立つという話をつれあいにしている。

スリランカは当時インド系のタミール・タイガーというスリランカからの分離独立を目指すテロリト達があちこちで爆弾テロを仕掛けている真っ最中で危ない国だった。スリランカ内戦は1983年から2009年まで26年間続いた。おかげで、平時だったら王侯貴族かVIP御用達のゴール・フェース・ホテルに格安料金で滞在できた。ここは英国植民地時代に造られた最高級のホテルで海を眺めるプール、庭園、テニスコートがあり、ホテルのインテリアも含めて古き良き時代の雰囲気が最高だった。ダンブッラの黄金寺院、古都シギリアの岩に書かれた美人絵、古都ポロンナルワの釈迦涅槃像など忘れられない旅になった。この小旅行の行く先々で武装した政府軍の兵士たちに車は止められて「何をしにきた」と誰何されている。内戦状態のスリランカでは島の北部はタミールタイガーの本拠地だ。仏教遺跡を巡る内陸の旅で危険地帯に近ついたことになる。内戦の状況を把握していなかったわたしと同行したつれあいも困ったものだが、ツアーの車とガイドをアレンジする旅行会社もずいぶんだ。この夏のインド、スリランカ、ネパールの旅はわたしの人生観に大きな影響を与えたと思う。その後1991年から国際開発関係の仕事について海外暮らしを続けている。

あれから長い時間が過ぎた。いつかスリランカの戻ってみたいと思っている。まだスリランカ再訪は果たしていないが、読んだ本の中でスリランカにめぐり会うことが何度かあった。ロシアの作家チェーホフは「サハリン島」という本を書いている。サハリンに滞在した帰り道にコロンボを訪問している。森鷗外の「舞姫」の中でも、主人公を乗せた船がコロンボに寄港している。わたしの母校であり新潟県立長岡高校の大先輩に藤井宣正という人がいる。第一次大谷探検隊のメンバーとして、探検隊による仏教研究をリードしたと言われている人だ。この人は英国留学中だったので、探検隊の他のメンバーと合流するためにインドに向かう途中で、スリランカに降りてこの地の仏教を研究している。

開高健は絶筆となった「珠玉」の第2章「弄物喪志」中でスリランカの宝石のことを書いて、マルコ・ポーロの「東方見聞録」について触れている。イタリアに帰る途中でスリランカに寄ったマルコ・ポーロはスリランカの宝石について「この世で最も高価なものについて話そう。それはまことにりっぱな、高価なルビーで、この島にだけ産出する。世界のどこにも見られないものである。この他にも、サファイア、黄玉、紫水晶、柘榴石など、さまざまな高価な宝石がある。」と書いている  (「東方見聞録」青木一夫訳、校倉書房)。

宮本輝の作品を集中的に読むようになったのは「ひとたびはポプラに臥す」というシルクロード紀行を読んだのがきっかけだった。1989年の「愉楽の園」というバンコックを舞台にした小説の中に「セイロンで爆弾テロがあったそうです」というニュースが流れる場面がある。スリランカの首都コロンボで爆弾テロがあり100人以上が死傷したのは1987年4月のことだ。長らく駐在生活を送った中央アジアの紀行がきっかけで、読みふけった作家の小説に、現在の海外生活の原点であるスリランカの話を見つけた時には不思議な気持ちがした。様々なことがつながっているような気がしたからだ。

スリランカは親日国だ。1951年のサンフランシスコ講和会議で対日賠償請求の放棄について演説をしてくれた国に対して、日本としても厚くその恩に報いるのが道理というものだろう。国のレベルでなく、一人一人ができることをすれば良いと思う。スリランカの国旗にはライオンの絵が使われている。古代の仏典ではこの島は「獅子の島」と呼ばれていたそうだ。この国の公式言語は「シンハリーズ(シンハラ語)」だが、シンハというのはサンスクリット語でライオンを意味する。タイ料理を食べに行くと出てくる「シンハ・ビール」のラベルもライオンの絵だ。シンガポールモ「シンガ」の部分がライオンに関係があるらしい、この国の象徴であるマーライオンだ。この辺り一帯が古代ノある時期にはサンスクリット文化圏であったことが想像できそうだ。

わたしの好きな作家たちの多くはスリランカに縁がある。わが家にとってもスリランカは出発点として重要な意味を持つ国だ。結婚指輪の内側にはそれぞれCOL-87という刻印が入っている。
古都ポロンナルワの涅槃像

2015年6月7日日曜日

集団的自衛権についての議論は尽くされたのだろうか?

家の近くにターナム・グリーンという緑の広場がある。教会があって、その周辺にただ芝生が広がっている。歩く小道が整備されて山桜の並木がある。その広場の隅にいつのまにか赤いケシの花(ポピー)が咲いている。この広場の東側の一角に戦没者追悼のこじんまりした石碑がある。そこに植えられた花の種が風で飛ばされたようだ。ひっそりと咲いている。赤いケシの花は欧州では戦没者追悼の花だ。去年の11月に友だちが遊びにきてくれた時にはちょうどセラミックのポピーがロンドン塔の空堀を埋め尽くしていた。1914年の第一次世界大戦の勃発から100周年の大きなイベントだった。11月11日が戦没者記念日となっているのは1918年の終戦の年の日付けだからすこしややこしい。欧州戦線の戦場となったフランダースの野原に咲いていた赤いケシの花が戦死者を悼む詩に歌われたことに由来するものだそうだ。ロンドン塔周辺を赤く埋め尽くしたセラミックの花を撤去しないでほしいという声も新聞紙上でにぎやかだったが、結局当初の計画通り希望者に売却された。ずっと残したいと考えるのならリアルの花を植えれば良いのでは思うが、その開戦から100周年の大騒ぎが終わってからそういう話はまだ聞いていない。お祭り騒ぎが終わると静かになるのは日本だけの話ではなさそうだ。

ちょうど一年くらい前に日本でも平和を考える問題について国論を二分するかのような大議論があった。メディアでもフェースブックでもにぎやかだった。鎌倉の母がいろいろ新聞の切り抜きを送ってくれた。80歳を越えた母が勉強してほしいと願っているのだと感じて丁寧に読んだ。5月3日は憲法記念日だった。朝日新聞の第3面に掲載された長谷部恭男教授と杉田敦教授との対談(201453日)で、両教授による集団的自衛権についての説明は明確だった。快刀乱麻を断つが如くの明快な議論だったので大事にとっておいた。それから選挙があったりで、いろいろあるとなんだか騒ぎは静まった感じがした。一年ほど経って今度は「解釈」ではなくて「新法案」の形で同じ議論になっている。国会の憲法審査会に与党の推薦を受けて出席した長谷部教授が同じ趣旨の発言をしたので大騒ぎになっている。

Blogosに掲載されていた関連記事を読むと、当日の審査会の議題は一般的なもので、集団的自衛権の行使についての質問は出席の議員の方から出たものだそうだ。それならば与党の関係者がおおあわてという報道も理解しやすい。長谷部教授の発言に重みがあるのは長く東大で憲法の講義をしてきた憲法学の権威というだけではない。様々なテーマで保守寄りの意見も、革新寄りの意見もある人で、きちんとした議論が尽くされた場合の結論については右左にこだわらない人だからだ。

政権に復帰した与党が集団的自衛権の問題に着手したのは去年の春からだった。その時に政府の立場を明確に批判していた長谷部教授が与党推薦で審査会に招かれたことに感動した。解釈改憲により集団的自衛権の行使を可能にしようとした政府の姿勢について、長谷部教授は以下の3点を指摘していた。
  • 「地動説から天動説への変更どころか、太陽系自体が壊れる」ほどの重大な変更である。このような転換は政府の憲法解釈というもの全体を、非常にあやふやなものにし、「法の支配」をゆるがせにしかねない。
  • 集団的自衛権の行使を容認するには、憲法を改正しないといけない。
  • 国民全体で大議論をして、その結果、「こう決断した」というのがないといけない。
わたしは戦争には反対だ。人を殺すのも、殺されるのも嫌だ。それでもこの問題が複雑なのは自分の家族や愛する者を守らなければならない時の実力行使を否定するわけにはいかないからだ。この点でいろいろな考え方が出てくる。大議論が必要であることは明らかだ。こっそりと誰かの解釈や一部の専門家だけで決めてもらう話ではない。
 







2015年6月2日火曜日

英国の夏の花 美しい「狐の手袋」には毒がある

ロンドンはこのひと月ほどでとても日が長くなった。4月の末に夏時間で一時間早くなったのに加えて、日没も午後8時少し前から、9時前へと遅くなっているので一日をとても長く感じる。陽が落ちてからも、雲がなければ夕陽が天空に反射して9時半を過ぎても明るい。英文学者の吉田健一氏が書いた「英国に就て」という英国の文化と自然について書かれた本がある。とても面白い。この本の中の「英国のビイル」というエッセイは、「日本では夏はビイル、冬は日本酒という人が多いが、英国では冬でも夏でもビイルを飲む。」という文章で始まる。吉田氏はその理由として英国は夏でも夕方になれば涼しいことを挙げて、「この秋の昼に似たロンドンの夏の晩に飲んでいる気持が今でも忘れられない。」と回想している。英国の夏の夕べはとてもすごしやすい。

この「英国のビイル」というエッセイの中に、小説家の堀辰雄が「狐の手袋」という随筆集を出していたと書かれている。青空文庫で調べてみると、随筆集の序文を見つけた。手袋には古い漢字が使われている。 「いま、ここにすこし隨筆めいたものを集めたついでに、ひとつその眞似をしてやらうと思つて、こんな題をつけて見た。因みに『狐の手套』と云ふのは、あの夏の日ざかりに紫いろの花を咲かせるヂギタリスの花の異名ださうだ。」 (堀辰雄「狐の手套」青空文庫より)。

この花は名前も面白いが、何度見ても飽きない不思議な色と形をしている。「ジギタリス」が植物図鑑に載っている名前だ。ラテン語で指の意味があるそうだ。そこから英語では一般にfox gloveと呼ばれるようになり、これが日本語に直訳されている。美しい花なので観賞用だが、強心剤としても効果があるので薬用にも栽培されているそうだ。この花の全体に猛毒があるので、取扱いが危ないようだが、英国の庭でも公園でもよく見かける花だ。

この花が気に入ったので、わたしのブログのカバー写真にも使っている。近所の教会と狐の手袋が対峙している写真である。これまでのところもっとも見事な群生地はウィンブルドンの全英オープンテニスの会場だった。狐の手袋は野原に咲いているものは紫色が多いが、庭に咲いている園芸種では白やピンクもある。今年は5月の末にホランド・パークで初めて見つけた。近所のチズイックハウス庭園を犬を連れて散歩するときに注意して探してみたら、草木の茂みの中にも咲いていた。夏の花の印象が強い。






2015年6月1日月曜日

初夏を飾り晩秋まで咲くフクシアの花 古代インカの女王の耳飾り

ロンドンは4月の末に夏時間に変わったあと、日ましに日が長くなっている。。このひと月ほどで日没時間は午後8時少し前から、9時前に変わった。陽が落ちた後も、雲がなければ夕陽が天空のあちこちに反射して9時半を過ぎても明るい季節になった。英文学者の吉田健一の書いた「英国に就て」というとても面白い英国案内を読んだ。32編の随筆が収められているので興味のある部分だけ拾い読みするつもりでいたが、面白いので全部読んでしまった。「英国の四季」というエッセイが面白い。

英国の冬がいつ終わり、いつ春がくるのかを考えるのは面白い。3月の初めに紅色の木瓜の花が咲く。。追いかけるように葉がないままのモクレンの裸の木に、白や薄紫の花がぽっかりと咲き始める。しばらくして背の高いモクレンの木が花で覆われると、春めいた感じはするが、まだ寒い日がほとんどだ。やがて山桜の薄桃色やアーモンドの白い花が咲き始めると4月になる。この頃は数日晴れたかと思うと、数日雨が続きとても不安定だ。吉田氏はこの四月の微妙さをT.S. エリオットを引用して説明している。「四月になれば英国でももう冬とは思えない日が多くなるが、それでもエリオットは例の「荒地」で、四月は残酷な月だとこぼしている。冬でもないし、はっきり春でもないからという意味らしくて、まず英国の四月はそんな感じがするものである。」 この人は英国の春がとても短いことについて、「英国では春が来ると、すぐに夏、或いは少なくとも、英国の夏になる。確実に春になるのが五月で、五月から英国では夏の最中になっている六月まではすぐである。」と書いた。言い得て妙だ。

5月の半ばに初夏の訪れを感じさせるように咲いたのが、玄関先のフクシアだ。今のフラットに越して来て以来、とても気に入って写真を撮り続けている。夏の始めから秋の終わりまで花の時期は長い。この花は日本でもフクシアと呼ばれる。ドイツ人の医者であり植物学者であったフクシア先生の名前にちなんでいるそうだ。英語圏ではヒューシャという発音になるが、日本での名前は欧州の大陸で使われているものと同じだ。この花は何とも言えず美しく気品がある。昔からアンデス地方に咲いていたので、古代インカでは「女王の首飾り」と呼ばれたそうだ。赤と青、赤と紫、赤とピンク、白と赤、白と紫など様々な組み合わせがあるがどれも色鮮やかで美しい。英国の夏を飾る花だ。