2016年8月23日火曜日

ビシュケクの料理店 青瓦台の記憶

1986年以来、2年間を除いて海外で過ごした。旅したり住んだりした国々の食卓についてノートを書いたが2007年の末から3年半暮らしたビシュケクについては、シャシリク、ラグマン、プロフなど中央アジアに共通の料理よりも、朝鮮半島料理の印象が強い。韓国のビジネスマンが退職してレストランを開いた店もあれば、スターリンの時代に満州から移住させられた朝鮮の人々の家族が開いた店もあった。朝鮮半島出身の人がたくさんいるのでコリアン料理の激戦区となる。競争を勝ち抜いている店は美味しい。焼肉と付け合せの様々な野菜、キムチ、石焼ビビンバなど定番ものはもちろんだが、それ以外に家庭料理風のメニューもある。

ビシュケクの青い看板が目印のチョンギバという店によく通った。漢字で書くと青瓦台となるそうだ。マスターが良い人でビシュケクの郊外にあるメープル・ツリーのゴルフ場で会うと、いつもにこやかにあいさつしてくれた。彼はわたしが一人でもチョンギバにランチに通い、夕方はお客さんとの会食とかスタッフと飲み会にも、この店を使ったので喜んでくれていた。この店のサバのコチジャン煮が絶品だった。アジア食品のスーパーもたくさんあるので冷凍のサバは簡単に手に入る。熱々ヒタヒタの辛みそスープにサバの切り身とよく煮えた大根がたっぷりだった。辛みそスープを白いご飯にかけるとたまらない。熱々でやけどしそうになるのでよく冷えたビールは欠かせない。ポイントは唐辛子味噌の使い方だ。癖になる味だ。

 この店に限らないが、メニューにはなくて、韓国の友人たちと会食した時だけ出てくる食べ物があった。茶碗蒸しのようでもある。ケランチムという名前だった。タシケント以来の長いつきあいで、ビシュケクで再会したKYと一緒だったりすると必ず出てきた。一人分用の小さな鉄釜に入って膨らんでいるのを、熱々の内にスプーンで食べる。火傷しないように少しずつ食べる。茶碗蒸しというよりもスフレに近い。ケランは鶏卵のことでチムは蒸したものの意味だと教えてもらった。具は入っていない。シンプルで優しい味がなんとも言えない。ビシュケクを離れる頃には、頼まなくても時々出てきた。常連として認められたようで嬉しかった。もう一つある。インスタントラーメンと魚肉ソーセージが入っているチゲ(鍋料理)の一種だ。ブデチゲという名前で、漢字で書くと部隊チゲとなる。妙に懐かしい味だった。

 

2016年8月17日水曜日

2つの民話 たらい船を漕ぐ娘と山を越えて走る娘

寿々木米若の「佐渡情話」という浪曲は見附の父が元気な頃の持ち歌だった。懐かしいのでCDが書棚にある。柏崎の漁師が荒波で難破し命を落としかける。佐渡の人に助けられて、回復を待つ日々を過ごしている内に、助けてくれた人の娘と恋に落ちる。傷が癒えた若者は必ず迎えに来ることを誓って柏崎に帰っていく。その時に娘には赤ん坊が出来ている。その後紆余曲折があり、はらはらの連続だが、最後にめでたしとなる。 この話には別にオリジナル版があってそちらは不倫も裏切りもある凄い話になっている佐渡ヶ島の娘と海を隔てた柏崎の男の物語である点は共通している。かよわい娘がたらい舟で佐渡から柏崎まで渡ってくる怪力物語になっていることがすでに謎めいている。美空ひばりさんが歌った「ひばりの佐渡情話」はオリジナル版に近い悲恋物語をせつせつと歌うものだ。

長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。民話を読んでみるとこれも凄い話だ。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。この辺りは佐渡情話と共通している。娘は温かいつきたての餅を運んでくる。不審に思った若者が問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。娘が異常な力を持っていること気がついた若者は怖ろしくなる。ついには疎ましくなって娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷には真っ赤なつつじが咲くようになったという伝説だ。





2016年8月13日土曜日

ロケット弾と竜神の話

1999年の春から2004年の秋までウズベキスタンの首都タシケントで、国連専門機関に勤務されていたHさんとご一緒した。ジャーナリストだったご主人から、わたしが働いていた組織と現地政府との関わりについて質問されたことがあった。当時は微妙な話題が多かったので、返答に困ったので覚えている。Hさんは、その後シリアの首都ダマスカスで勤務することになった。ある時に日本に里帰りして神社にお参りすると、シリアに戻ってからも竜神様のようなイメージが脳裏から離れなかったというのがご本人の記憶だ。ダマスカスのプールで泳いでいると後ろ5mほどのところにロケット弾が着弾した。「物騒なご時世に水泳か」と思う人もいそうだが、途上国の勤務では体力と気力の維持が大切だ。物騒な国だからこそ運動したり、歩いたりできる場所は限られる。ホテルの施設くらいしかない。ロケット弾が水の中で破裂したおかげでHさんは九死に一生を得た。Hさんは龍神さまのご加護だと思ったそうだ。

龍のイメージで鮮明なのは小学校の時に学校で上映されたアニメ「龍の子太郎」だ。童話作家の松谷みよ子さんが長野県の民話をもとに再構成したこの作品は1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。山の仕事で疲れ果て、空腹で気が遠くなりそうだった太郎のお母さんは、川でとれた魚を焼いている内に仲間の分まで食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまう。残された太郎少年が、龍となった母を探し求める冒険物語だ。子供心にその魚が焚き火でジュウジュウ焼ける香ばしい匂いと、空腹に負けて一匹また一匹と食べてしまう場面が怖ろしい記憶として残っている。自分がそのような立場に立たされたとしたら誘惑に打ち勝つ自信がなかったからだ。極限状態に近い空腹を抱えながら、食べてはいけないというのも酷な話だ。

郷里である新潟県長岡市に高龍様という神社がある。上越線の宮内の辺りを流れる太田川の源流の辺りだ。見附の父が元気だった頃に一緒にお参りに行って交通安全のお守りをもらったことがある。このお守りはわたしが日本を離れて、様々な国を仕事で訪れるようになった時に必ず旅行のカバンに入っていた。コーカサスへの出張でも、中央アジアへの出張でも一緒だった。こちらの神社は「蛇」がご本尊だ。しぶとい生命力と根気強さから商売繁盛にご利益があるとされている。その昔は、長岡の厚生会館ホールなどで芸能人の公演がよく開催された。ヒット祈願などで高龍神社を訪れた有名スターも多いそうだ。父を思い出す場所になった。

フビライ汗と馬頭琴「スーホの白い馬」の思い出

1993年から2015年の夏まで働いた職場は発足当初はロシア・東欧の国々が活動の対象国だったが、2000年代後半になってモンゴルも対象国となった。バット君は職場で知り合ったモンゴルの人たちの一人だ。この人の本名はもっと長いが誰も発音できないので短い通称を使っていた。ある日彼のオフィスの前を通りかかった。通路と個室を仕切る壁はガラスなので中の様子が見えた。デスクの壁に飾ってある丸顔で威厳のあるアジア風ポスターが気になった。「今日は」と言って彼に話かけた。フビライ汗の肖像だった。モンゴルの話になった。わたしは作家開高健のモンゴル紀行などを読んでモンゴルに興味があるという話をした。バット君がおもむろに机の引き出しを開けた。「君がモンゴルを好きなのはうれしい。このCDも聴いてくれ」。馬頭琴の演奏CDだった。気持ちの良い音だったのでそれからしばらく聴き続けた。

2014年の夏に千石にあるモンゴル料理店シリンゴルを訪れた。高校同窓のフェースブック友だちと3人だった。モンゴル料理は初めてだったが、中央アジアに駐在して以来、羊肉は大好きだ。途中で馬頭琴の演奏があった。モンゴルの草原を馬が駆けているような軽快な曲と中国風のなんとも懐かしい感じの曲だった。軽快な曲はモンゴルの物語「スーホの白い馬」の音楽だった。大切なものと出会う喜びがあり、理不尽な形で別れがくる悲しみを歌うのは世界中で共通する感情だ。その次に客席から若い人が呼ばれて馬頭琴の弾き語りとなった。太い弦が低くふるえているような声が響いてきた。お坊さんたちの読経の声を思い出した。

蛇足になるが、「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督、2007年)という山口さよこ(小夜子から改名)さんが主演した映画があるそうだ。山口さんはこの映画の完成後の2007年の夏にご逝去された。この映画いつか見てみたい。

2016年8月9日火曜日

忍者修行の里と伊勢の餅菓子のこと

W文春に「忍者修行の里」という風景写真が載っていた。涼しそうできれいな景色だと思いながらテキストに目をやると「赤目四十八瀧」とあるのに気が付いた。2015年の5月に逝去された車谷長吉氏の直木賞受賞作の舞台だ。鬼気迫る本だった。主人公は作家になりたくて、東京のサラリーマン生活を捨てる。作家志望専業になって転がり込んだ実家の母親は息子に愛想を尽かす。「他人様は上手いことを言うだろうよ。お前が野たれ死にしようがしまいがどうだっていいだろうから。それを真に受けてどうする。」  この小説の主人公は、仕事を転々として、やがて大阪尼ヶ崎のアパートの一室でひたすらモツ肉の串を刺し続けることになる。怪しげな場所に居つくようになること、それなりに居心地の良さを発見すること、不思議なヒロインが登場することの3点で安部公房の「砂の女」を連想させるが、「赤目四十八瀧心中未遂」を際立たせているのは緊迫した情念の強さだ。

この広告の伊勢の餅菓子には思い出がある。東京で会社員をしていた時に同じ部に新しく入ってきた女子がいた。伊勢の出身で、この広告の老舗とライバルにあたるお店が実家らしい。わたしが会社を辞めた時にその関連の玉突き移動で、彼女は調査課から購買課というもう少し実業に近いグループに移動となった。口数の少ない人だったが「お辞めになるおかげで、わたしが購買課に行くことになって大変ですよ」と声をかけてくれたのを覚えている。世間の注目を浴びた疑獄事件で失脚した政治家の人と同じ苗字だった。親戚だそうだ。

「何気ない写真」 と 「伊勢」の組み合わせで松本清張原作、野村芳太郎監督の傑作 「砂の器」 (1974年) を思い出した。人情味豊かで人望のある老巡査が定年後に伊勢参りの旅に出る。旅先で行方不明となり、東京で殺人事件の被害者として発見される。幾重ものトラウマを抱えて手負いの獣のように生きる主人公を描いた物語は、映画全編を流れる音楽と、流浪する父子の旅する日本の風景が印象的だった。旅先の田舎の駅に飾ってあった何ということのない集合写真を目にしなければ、それに続く悲劇が起きる必要もなかったのにと痛ましい気持ちになる。傑作だ。

映画「砂の器」を観たのは1975年3月だ。大学入試の発表の日だったので覚えている。お昼に新宿で高校同級のN君と会った。二人で昼飯を食べてしまうと、まだ日が高かった。どうにも結果発表のキャンパスに足を運ぶのが気が重い。その数日後に2期校受験が待っていた。すでに浪人を決めていたN君の誘いだったような気がするが、新宿ピカデリーで「砂の器」の看板が見えると、まずは映画でも観てからということになった。長い映画で途中から発表の方が心配になってきた。映画館を出るともう暗くなりかけていた。結果を見附の父に電話すると叱られた。連絡がないので、落胆のあまり失踪したのかという話になっていた。