2016年4月30日土曜日

イザベラ植物園の思い出 ロンドンの秘密のつつじ園

小さな渓谷全体がつつじの色に染まるイザベラ植物園を訪れたのは一年前の4月の終わりだった。事情もあって長い海外生活を打ち切る準備に入った頃になってようやくロンドンの様々な会合に顔を出すようになった。たくさんの出会いがあった。この秘密の花園は新潟県人会でお会いして以来親切にしてもらった近所の友だちに教えていただいた。それからひと月ほどつつじが終わる頃までこの場所に通い続けた。

その後もここで様々な植物と出会った。野鳥や水鳥や鹿や夕陽の写真を撮るようになった。加藤節雄先生の写真クラブとの出会いもあった。帰国して鎌倉に住んで花や鳥や風景を撮影するために寺巡りをして、関連文献をチェックする今の生活の原型はこの場所にある。

ここでつつじの風景を見て以来、気持ちの中で何かが変わったのだと思う。ひと月ほど数日ごとにこの場所でつつじの群生の変化を眺めていた。こんなに美しいもののそばにいながらそれまで見たことのない自分の生活が少し変だと思った。その頃には帰国の方針を固めていたので何かそれを正当化する理由を探していたこともある。死ぬ前に見たいものはまだたくさんあるはずだという気持ちは今も変わらない。





「地面の底に顔があらわれ」。。。三色スミレの印象

散歩していると三色スミレがあちこちで咲いている。植物の写真は自然の風景を切り取りたいし、園芸品種は数がありすぎてきりがないので避けることにしているが、道端で目にする面白い花もある。三色スミレは群生が美しい。

「地面の底に顔があらわれ」とうたったのは萩原朔太郎だが、三色スミレも人間の顔のようにみえる。インベーダーゲームにも見える。怒っているようにも、ひょうきんな感じにも見える。この話をつれあいにすると 「そう言えば三色スミレはロシア語で何とかの瞳だと教わったよ。何とかのグラザだっけ」と言います。ふーむ。「アニュータの目」という表現があるらしい。アニュータはアンナの愛称なので可愛い感じはわかる。わたしの印象では大勢の頑固ジイサンが怒っている顔に見える。





2016年4月29日金曜日

鶴岡八幡宮の桐の花

桐箪笥で目にし、触れてもいるはずだが、桐の花を見たことがなかった。先日連なって咲く紫の花を見かけた。それが桐の花と知って思い出したことがある。タシケント勤務時代に当時のN大使の公邸で夕食会に招かれた。その後著名人となられた女性大使で細やかな心使いの方だ。その日も招かれた現地の皆さんに様々な日本の話をされていた。テーブルの上に並んだ器の桐の紋に話が及んだ。「桐って何て訳したかしら?」と訊ねられたが、居合わせた邦人の誰も答えられない。辞書を引くとpaulownia と出てきた

日本には法律上の国章はない。菊の御紋や桜のデザインが「日本の花」としてよく使われる。パスポートの表紙が菊の御紋なので正式な日本国の紋章だと思っていたら菊は皇室の紋章だそうだ。皇室が日本統合の象徴と定められているので菊の御紋は様々なところに登場する。日本政府の紋章としては桐も使われるのが習わしで政府公館の備品の紋章にもなっている。桐は中国の言い伝えで鳳凰の止る木として大切にされてきたそうだ。




柴田秀一郎写真集「バス停留所 Bus Stop」 

藤沢のジュンク堂に今年初めにお会いした柴田さんの写真集が置いてあったので入手した。76頁に見附市庄川のバス停の雪景色が登場する。見附の本町から細越坂を越えて栃尾へ向かう辺りで私は育った。刈谷田川の流れている庄川付近は季節を通じて自転車を走らせた辺りだ。75頁は守門村のバス停の写真である。刈谷田川の土手から守門山が見える。「仰ぐ理想は守門の峰に。。。」と見附市立見附小学校の校歌にも出て来る名山だ。今年は友人と守門山開きに行く予定にしている。74頁の栃尾小貫のバス停の写真にも雪が降っている。

これらのバス停が撮影された地域で育ったわたしを懐かしいような複雑な気持ちにさせる写真集だ。市の観光案内に載せたいような写真ではない。大林監督が映画「廃市」を撮った時に地元の人は映画の撮影中は歓迎したが、映画が完成すると落胆したという話を連想した。美しかろうがなんだろうが自分の故郷が廃れていくのは辛いものだ。この不思議な写真集にはそういう鄙びた村や町の、かろうじて廃線を免れているようなバスの停留所が出てくる。

この写真集のあとがきを読んでなるほどと思う。「バス停ははかない」のである。鄙びた村や小さな町のバス路線が廃止になれば撤去されて何も残らない。この写真集が写し出そうとしたのはそういうバス路線が近代交通の担い手として始まってから現在にいたる時間であり、やがて消えて行くであろうバス路線が存在したことの証人として無人のバス停との対話を試みる柴田氏の視線そのものなのだろう。

同じように長い時間をかけて自分のふるさと栃尾の日々の風景と人々を43年見続けて写真集を出した倉茂義隆さんのことを思い出した。倉茂さんの写真集に写っているのは現実の風景のはずだが、撮影している人の幻視のようにも見える。柴田さんが引き合わせてくれた写真家の方である。





2016年4月28日木曜日

倉茂義隆写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」

不思議な魅力に満ちた写真集である。今年の始めに倉茂義隆さんにお会いする機会があり、その場で欲しくなったのでサイン入り本を持っている。わたしの郷里でもある栃尾の風景が出てくる。地元のおじいちゃんやおばあちゃんのほのぼのした肖像写真が出てくる。しみじみした気持ちになりかける。突然写真の中に不思議な塑像が登場する。遊び心いっぱいの写真が登場する。懐かしさと、寂しさと、可笑しみが時間のフィルターによるものなのか奇妙なバランスを保ち、ひとつの世界となって存在している。

倉茂さんに引き合わせてくれたのは写真家の柴田秀一郎さんだ。去年の12月にある水彩画展のお祝い会で、柴田さんにお会いした。その時に郷里である栃尾巣守神社の裸押し合い祭りの話をした。年が明けて数人で観に行くことになった。同郷の映画監督である五藤利弘さんも一緒だった。祭り見学の次の日は雨になった。柴田さんが「栃尾に素晴らしい写真家の方がいる。近くのはずだ」と教えてくれたので、3人で倉茂さんのスタジオを訪問することになった。そのスタジオにあった不思議な塑像が印象的だった。写真集「43年の夢  ふるさと栃尾の日々」のカバーにも使用されている。

倉茂さんの机の上に置いてあったのがボルヘスの本だった。このアルゼンチンの作家は「夢の本」という題名の本を書いている。五藤監督は「ゆめのかよいじ」という刈谷田川の石積み風景が登場する映画を撮っている。柴田さんは鄙びた地方のバス停を撮り続けている人である。わたしのブログのタイトルは「刈谷田川の夢」である。倉茂さんから勧められた三木成夫という解剖学の先生の書いた「胎児の世界 人類の生命記憶」という本も面白い。さまざまな出会いが「夢」というテーマでつながっている。




萩原朔太郎と白いオダマキの花

去年まで住んでいたロンドンの家の近所で初めてオダマキを見たのでこの派手な花は洋風だと思っていた。最近はまっている寺巡りで撮影した草花を図鑑で調べていてこの花を苧環という漢字で書くことを知った。

昨日、散歩のついでに鎌倉文学館の萩原朔太郎展を訪れた。この人は鎌倉材木座に住んでいたことがあるそうでそのご縁らしい。自筆原稿や写真とかが2つの展示室に飾られている。岩波文庫 (三好達治編)のこの人の詩集の一番に出ている「夜汽車」という詩がある。原稿が展示されていたので読んでみると、最後の部分にオダマキの花が出てくる。「しののめちかき汽車の窓より外をながむれば ところもしらぬ山里に さもしろく咲きてゐたるをだまきの花」とある。この詩は恋人らしい人妻との旅の場面をうたっている。

「月に吠える」などの鋭敏な感覚で知られるこの詩人を知ったのは高校現国の教科書の伊藤整「若い詩人の肖像」からの抜粋だった。ここに登場した「題のない歌」という作品の最後の部分が印象的だ。「わたしは沈黙の墓地をたつねあるいた それはこの草叢の風に吹かれてる しずかに 錆びついた 恋愛鳥の木乃伊であった。」  他にも良い詩がたくさんある。わたしはこの人を恋愛詩の名手として認識してきた。昨日の特別展でこの人が古今和歌集の恋歌を愛読していたという説明があり納得した。
 

2016年4月13日水曜日

梅と桜

4月10日の朝日朝刊の「日本人と花見」という記事が面白かった。1)奈良・平安の貴族の時代には中国伝来の梅が文化・教養の象徴としてもてはやされたので詠まれた和歌の数も桜より多い。2)観桜の宴が始まったのは武士の世となった鎌倉時代以降で、桜は死や無常観の象徴となった。3)花見が庶民の娯楽として広まったのは江戸時代に園芸品種であるソメイヨシノがあちこちに植樹されて以降のことである。なるほど。

海外生活を打ち切ることを考え始めた去年の春にせっせと街の風景を撮り始めた。ロンドンの桜もたくさん撮った。去年の秋に帰国して、今年の春は鎌倉の桜を追いかけた。たくさんの種類の桜があり「はかない色の花が一度に咲いてすぐ散る」ものばかりではないことに自然と気がつく。

この時期に各地を訪れて花見を経験したイタリア人の友だちから「どうして日本人は桜が特別に好きなのか」という質問を受けた。「気持ちをそろえるように一度に咲いて一度に散るソメイヨシノが武士道の精神と重なって尊ばれるからだろう」と答えました。「それは昔からか?」と再度質問されたので考えてみた。

京極純一の「日本の政治」の中で「明治になって四民平等の制度となり、サムライ精神が広く競争の原理となった」と指摘されていることを思い出した。それまでの身分が固定された社会では「競争」というのは秩序の紊乱に通じかねない。「和の精神」こそが尊ばれることになる。明治の近代化の中で競争原理が公のものとなり、四民がこぞって「サムライもどき」として武士道精神を尊重したという指摘だ。面白い。