2016年11月10日木曜日

マークス&スペンサーの思い出

ロンドンの大手総合小売店であるマークス&スペンサー(M&S) が30の総合店を閉店し、45の店舗を食品オンリー店に転換するなどリストラを行い、衣服から食品へとシフトしていくというガーディアン紙のニュースを読んだ。婦人服の売上げが振るわないことが理由らしい。ロンドンに1993年から1度目、2011年から2度目で住んだ時にいつもお世話になった店なので興味深い記事だった。

この店は「質が良いものを、ほどほどの価格で売る」というイメージがあり、安心して買い物ができた。この店の「長い、普通、短い」の3種の長さとサイズの組み合わせが私にぴったりで、既製のビジネススーツを直さずに着ることができたので愛用した。ロンドンで衣類を買うのは色やデザインが豊かで楽しいけれど、たいていの服は細身で長めのものが多い。服の買い物は一時帰国の時に日本でするという邦人たちの声を何度か聞いた。オーダーメイドにすればいい話だが、これを老舗でやるとかなり値が張ることになる。

2度目に赴任した時に、M&Sが90年代に比べての2つの点で変化していた。1つはあちこちに「食品オンリー」の店舗が増えていたことだった。これはセンズベリーなどの競合店が「ローカル店」というコンセプトで小さなお店を増やしたことに対抗したのだろう。週末の買い物は郊外の大型店に車で行けば良いが、仕事帰りに食品やワインを買うのは地下鉄駅の近くとかが便利に決まっている。もう一つの変化はM&Sの服売り場に様々なM&S内ブランドができていたことだ。若者向けだと「ブルーハーバー」、ちょっとお洒落で価格も高い「オートグラフ」などは90年代にはなかった。服売り場の多様化は、価格の安い商品での競争が激化したことを反映したものだ。オートグラフは服飾専門店ほどには高くないがちょっとお洒落なブランドで重宝した。

M&Sと言えば、昨年帰国するまで参加していたロンドン勉強会でマークス寿子さんとご一緒する機会があった。この方のご専門は歴史研究だが、英貴族でM&S共同創設者であるマークス氏と結婚されていたことをテーマにした軽妙なエッセイで知られている人だ。その他にも日英文化比較についてのたくさんの著書がある。
https://www.theguardian.com/…/m-and-s-marks-spencer-close-8…

2016年11月8日火曜日

池澤夏樹 「植民地の叛乱」の構図

池澤夏樹氏の小説は「スティル・ライフ」で芥川賞受賞の頃から時折り読ませていただいた。去年くらいから再び興味を持っているのは「母なる自然のおっぱい」というエッセイ集の中の文章に出て来る桃太郎論を政治家が取り上げたことで、新聞紙上で同氏の返信があったことがきっかけだった。桃太郎話を明治以降の近代化の文脈で取り上げた文章だ。実はこれは同氏ご自身が、文庫本のあとがきで解説されているようにオリジナルではなく、福沢翁などを含む明治以降の知識人が何回か取り上げてきたテーマのようだ。数年前に同趣旨のテーマが広告賞を受賞して話題になったこともまだ記憶に新しい。
 
A新聞の夕刊で池澤氏が、同じ文脈で最近の沖縄問題に関して「何故、土人という言葉が飛び出すのか?」という問題を提起している。この文章の結びで沖縄と原発問題の共通性が指摘されていた。わたしの故郷に近い柏崎・刈羽についても言及されているので考え込んでしまった。学校で法律を学んだ時には「個人の幸福追求の権利」は「公共の福祉」によって制限されることがあり得ると教わった。自分の選んだ立場を理論つけしようとすれば、どちらも可能である。「多数説」が時代によって左右に振れながら登場してくる理由だろう。
 
明快な答えを見つけにくい問いについての論争でこれまで「公共の福祉」論がやや優勢だった気がするのは、右肩上がりで経済が成長し、世の中が「発展」していた時代には、「公共の福祉を優先させれば、全体として皆が幸せになる」という考え方が共有されやすかったからだろう。高度成長の時代が終わってしばらく経ち、社会の方向性についての見方も多様化した現在ではどうしても地域格差の問題に焦点が当たらざるを得ない。その意味で池澤氏の論説は極めて現代的だ。添付の記事は登録すれば無料で読める。
 
エネルギー論としての原発については様々な意見があるだろうが、わたしの立場は単純だ。故郷である新潟県がエネルギー消費地域の植民地として犠牲になることには反対だ。夕刊の記事を読んでそんな思いを強くした。
 

2016年11月7日月曜日

加藤九祚先生を偲ぶ会 2016年11月3日

ウズベキスタンで発掘作業を指導されていた加藤九祚先生が、2016年9月に酷暑のテルメズで体調を崩されご逝去された。94歳だった。加藤先生を偲ぶ会が11月3日に開かれたので、参列させていただいた。同じ年の前半に開かれた中央アジア・シンポジウムに先生が登壇された時に、壇上の先生を拝見した。小説家井上靖氏の中央アジアエッセイに加藤先生がよく登場することから、加藤先生の著書を読むようになった。私自身もウズベキスタンの首都タシケントに5年ほど駐在する機会があったこともあり、気になる人だった。タシケントでご一緒したK大使、中央ユーラシア調査会のT先生、今は東京にいるロシア語の恩師であるピヤノヴァ先生を通じて間接的には消息を何度も聞いてきたので、勝手に親しみを感じている。

市ヶ谷の地球広場のあるJICAのビルで午後2時に始まった先生を偲ぶ会は満席で立ち見の人だけでなく、部屋に入りきらなくて別室でTVで会の様子を眺める人たちでいっぱいだった。ウズベク時代の知人たちもTVでおなじみの中央アジア関係者もいらしていた。シベリア抑留時代、平凡社の編集部時代、国立民族学博物館時代、出版された書籍の関係者、外交団の皆さんのスピーチが興味深いものばかりだった。午後6時前に閉会となり、その後は小グループに分かれて打ち上げとなった。

朝鮮半島から宇部のセメント工場で働く兄を頼って本土にやってきた加藤先生は苦学しながら上智大学で独語を学ぶ。やがて陸軍に志願し任官する。これが2015年まで郷土の土を踏む気になれなかったことの理由だったことを、同年に放送されたTVのインタビュー番組で説明されている。シベリアに抑留され、独語のできるインテリ士官として作業をこなしながら露語をマスターする。この当時の隊員の方が偲ぶ会で思い出を披露した内容が印象深かった。

5年の抑留生活を終えて帰国し出版社に勤務する。この時代に机を並べたA山光三郎氏も追悼スピーチをされた。編集者として活動する中で様々な出会いがあり、また露語を活かして学者の途に進んでいかれたようだ。やがて発掘の実績が認められ国立民族学博物館に迎えられる。この時代に机を並べた方の追悼スピーチによれば、シベリア帰りで露語が堪能ということで公安当局から「スリーパー」としてのスパイ嫌疑を受けたそうだ。当局者は月に一度くらい先生を訪問して、動静を探る。加藤先生は公安氏が来ると一緒になって酒盛りをして楽しんだそうだ。やがて公安氏が一升瓶を下げて訪問するようになる。抑留についても自分は「国費で5年間シベリアに留学」した(ようなもの)と述懐されていたそうだ。

4時間に及んだ偲ぶ会では様々な方々が加藤先生との思い出を披露した。井上靖氏との親交についてもいくつかのスピーチに登場した。加藤先生は、ご自分が井上氏と酒を酌み交わしながら紹介した材料が小説「おろしや国酔夢譚」につながったことを誇らしく思っていたそうだ。90歳を超えてからも発掘のためにウズベキスタンを訪れるなど、精力的に旅をされていた。今年もミャンマーを訪れバガンの古寺群に感動されたという話を聞いて少し驚いた。わたしも今年の8月末にバガンを訪れたばかりだった。ウズベキスタン、ミャンマーと加藤先生の後を追いかけているような不思議な気持ちになった。