2016年12月31日土曜日
「私の夢」に再会した
2016年12月に千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館を訪れている。この美術館で開催されていたレオナール・フジタ展で40数年ぶりに「私の夢」に再会した。この絵は私が中・高生の頃長岡の現代美術館に所蔵されていたが、やがてこの美術館のオーナーの銀行が経営破綻する。所蔵品は各所に分散して引き継がれた。1993年に長岡市の信濃川ベリに新潟県立近代美術館ができると、フジタの「私の夢」はこちらの所蔵となった。
長い間、再会を夢見てきたが海外での生活が続いていたので2015年の秋に帰国するまで機会がなかった。各地の美術館では相互の貸出が盛んらしく人気のあるこの絵は頻繁に旅をしていたので、一時帰国の時にも会えなかったからだ。
40年ぶりの再会には新しい発見があった。今回の展示で「私の夢」の左隣にもう一枚の絵がかけてあった。絵の中央に横たわる乳白色の裸婦像はそっくりだ。右側の展示の「私の夢」が何故暗い印象があるのだろう?眠る裸婦像の周辺で十数匹の猫たちが侃々諤々の議論でもしている様子で踊っている。
2枚の絵の制作年を確認してみると、一方はフジタがパリの画壇の寵児として脚光を浴びていた頃の絵である。もう片方は戦後に戦争協力のの批判にさらされ日本を捨てる直前に描かれた絵である。どちらの絵でも中央にある裸婦像はほとんど同じように見える。変わったものと変わらないものの対比が鮮やかだ。
2016年11月8日火曜日
池澤夏樹 「植民地の叛乱」の構図
池澤夏樹氏の小説は「スティル・ライフ」で芥川賞受賞の頃から時折り読ませていただいた。去年くらいから再び興味を持っているのは「母なる自然のおっぱい」というエッセイ集の中の文章に出て来る桃太郎論を政治家が取り上げたことで、新聞紙上で同氏の返信があったことがきっかけだった。桃太郎話を明治以降の近代化の文脈で取り上げた文章だ。実はこれは同氏ご自身が、文庫本のあとがきで解説されているようにオリジナルではなく、福沢翁などを含む明治以降の知識人が何回か取り上げてきたテーマのようだ。数年前に同趣旨のテーマが広告賞を受賞して話題になったこともまだ記憶に新しい。
A新聞の夕刊で池澤氏が、同じ文脈で最近の沖縄問題に関して「何故、土人という言葉が飛び出すのか?」という問題を提起している。この文章の結びで沖縄と原発問題の共通性が指摘されていた。わたしの故郷に近い柏崎・刈羽についても言及されているので考え込んでしまった。学校で法律を学んだ時には「個人の幸福追求の権利」は「公共の福祉」によって制限されることがあり得ると教わった。自分の選んだ立場を理論つけしようとすれば、どちらも可能である。「多数説」が時代によって左右に振れながら登場してくる理由だろう。
明快な答えを見つけにくい問いについての論争でこれまで「公共の福祉」論がやや優勢だった気がするのは、右肩上がりで経済が成長し、世の中が「発展」していた時代には、「公共の福祉を優先させれば、全体として皆が幸せになる」という考え方が共有されやすかったからだろう。高度成長の時代が終わってしばらく経ち、社会の方向性についての見方も多様化した現在ではどうしても地域格差の問題に焦点が当たらざるを得ない。その意味で池澤氏の論説は極めて現代的だ。添付の記事は登録すれば無料で読める。
エネルギー論としての原発については様々な意見があるだろうが、わたしの立場は単純だ。故郷である新潟県がエネルギー消費地域の植民地として犠牲になることには反対だ。夕刊の記事を読んでそんな思いを強くした。
2016年11月7日月曜日
加藤九祚先生を偲ぶ会 2016年11月3日
ウズベキスタンで発掘作業を指導されていた加藤九祚先生が、2016年9月に酷暑のテルメズで体調を崩されご逝去された。94歳だった。加藤先生を偲ぶ会が11月3日に開かれたので、参列させていただいた。同じ年の前半に開かれた中央アジア・シンポジウムに先生が登壇された時に、壇上の先生を拝見した。小説家井上靖氏の中央アジアエッセイに加藤先生がよく登場することから、加藤先生の著書を読むようになった。私自身もウズベキスタンの首都タシケントに5年ほど駐在する機会があったこともあり、気になる人だった。タシケントでご一緒したK大使、中央ユーラシア調査会のT先生、今は東京にいるロシア語の恩師であるピヤノヴァ先生を通じて間接的には消息を何度も聞いてきたので、勝手に親しみを感じている。
市ヶ谷の地球広場のあるJICAのビルで午後2時に始まった先生を偲ぶ会は満席で立ち見の人だけでなく、部屋に入りきらなくて別室でTVで会の様子を眺める人たちでいっぱいだった。ウズベク時代の知人たちもTVでおなじみの中央アジア関係者もいらしていた。シベリア抑留時代、平凡社の編集部時代、国立民族学博物館時代、出版された書籍の関係者、外交団の皆さんのスピーチが興味深いものばかりだった。午後6時前に閉会となり、その後は小グループに分かれて打ち上げとなった。
朝鮮半島から宇部のセメント工場で働く兄を頼って本土にやってきた加藤先生は苦学しながら上智大学で独語を学ぶ。やがて陸軍に志願し任官する。これが2015年まで郷土の土を踏む気になれなかったことの理由だったことを、同年に放送されたTVのインタビュー番組で説明されている。シベリアに抑留され、独語のできるインテリ士官として作業をこなしながら露語をマスターする。この当時の隊員の方が偲ぶ会で思い出を披露した内容が印象深かった。
5年の抑留生活を終えて帰国し出版社に勤務する。この時代に机を並べたA山光三郎氏も追悼スピーチをされた。編集者として活動する中で様々な出会いがあり、また露語を活かして学者の途に進んでいかれたようだ。やがて発掘の実績が認められ国立民族学博物館に迎えられる。この時代に机を並べた方の追悼スピーチによれば、シベリア帰りで露語が堪能ということで公安当局から「スリーパー」としてのスパイ嫌疑を受けたそうだ。当局者は月に一度くらい先生を訪問して、動静を探る。加藤先生は公安氏が来ると一緒になって酒盛りをして楽しんだそうだ。やがて公安氏が一升瓶を下げて訪問するようになる。抑留についても自分は「国費で5年間シベリアに留学」した(ようなもの)と述懐されていたそうだ。
4時間に及んだ偲ぶ会では様々な方々が加藤先生との思い出を披露した。井上靖氏との親交についてもいくつかのスピーチに登場した。加藤先生は、ご自分が井上氏と酒を酌み交わしながら紹介した材料が小説「おろしや国酔夢譚」につながったことを誇らしく思っていたそうだ。90歳を超えてからも発掘のためにウズベキスタンを訪れるなど、精力的に旅をされていた。今年もミャンマーを訪れバガンの古寺群に感動されたという話を聞いて少し驚いた。わたしも今年の8月末にバガンを訪れたばかりだった。ウズベキスタン、ミャンマーと加藤先生の後を追いかけているような不思議な気持ちになった。
2016年9月12日月曜日
ミャンマー植林の旅 「ビルマの竪琴」の空想の舞台を追って
この夏の終わりにミャンマーへ旅をした。若い頃にバックパックを背負って欧州も、インド・スリランカ・ネパールもペルー・ボリビア・メキシコも旅しているが、還暦が近い歳になると一人旅は気が重い。知り合いの方が主催されているNGOの植林ツアーのことを知り、記録写真係を志願して連れて行ってもらうことにした。植林ツアーの目的地は古都バガンだった。日本から行く場合は首都ヤンゴン経由となる。ヤンゴンは暑くて湿気が多く大変だったが大きな寺院や涅槃像で有名な寺院やアウンサン将軍の記念館など見どころもたくさんある。ヤンゴンの空港に着くと現地側パートナーとしてこの旅に参加してくれた団体のメンバーたちが待っていてくれた。到着時間が遅めだったので宿にチェックインする前に、空港からの途中でレストランで夕食となった。
この席で同席したのがADさんだった。話が面白い人で旅の間ずーとお世話になって楽しかった。夕食をしながらこの国と植林ツアーについて説明を受けた後で「質問はありますか?」ということだった。「「ビルマの竪琴」という映画を古いのも、新しいのも観たことがありますが、この映画の原作になった本のことを知っていますか?」 と質問してみた。「こちらでも翻訳されている素晴らしい本です。でも書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という返事を聞いてびっくりした。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反だという点だ。物語の中では日本兵である水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。その時に戒律違反の楽器を持ち歩き、さらに演奏もするということであれば目立ち過ぎて説得力を欠くことになる。
この席で同席したのがADさんだった。話が面白い人で旅の間ずーとお世話になって楽しかった。夕食をしながらこの国と植林ツアーについて説明を受けた後で「質問はありますか?」ということだった。「「ビルマの竪琴」という映画を古いのも、新しいのも観たことがありますが、この映画の原作になった本のことを知っていますか?」 と質問してみた。「こちらでも翻訳されている素晴らしい本です。でも書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という返事を聞いてびっくりした。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反だという点だ。物語の中では日本兵である水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。その時に戒律違反の楽器を持ち歩き、さらに演奏もするということであれば目立ち過ぎて説得力を欠くことになる。
僧侶と竪琴の関係以外にもう一つ気になったのは、牛についての記述だ。文庫版の165頁に「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」という記述がある。わたしが今回の旅で牛車を引く牛たちを見かけた時に同行した人たちに「あれは水牛でしょうか?」と聞いてみると「違うよ。牛だよ。」と教えられた。帰国して調べてみるとコブ牛というものらしい。なるほど首を前に垂らしたその付け根のあたりが骨の突起のような形でこぶ状に見える。よく見かけたこのコブ牛の角はさほど大きくない。水牛ということになると角も体ももう少し大きいようだ。
市川崑監督の映画は安井昌二主演の1956年作品も、中井貴一主演の1985年作品も観たことがあるが原作を読んだことがなかった。バガンから帰国して、書店で新潮文庫版を買った。著者あとがきによるとこの作品は昭和21年から23年まで童話雑誌に子供向けの物語として連載されている。戦後間もない話だ。23年の秋に中央公論社から単行本として出版され毎日出版文化賞、25年に文部大臣賞を受賞した。文庫版の後ろの「ビルマの竪琴ができるまで」という著者の文章が面白い。ここに「一度もビルマに行ったことがない」と書かれている。終戦当時すでに40代の半ばだった著者は軍隊生活もほとんど経験していないそうだ。
旧制一高の教授として多くの学徒を戦地に送り出したことで、鎮魂の物語を書きたいと思ったことが書かれていた。著者の執筆の目的は徴兵されて異国で野仏となった人々の慰霊にあるので場所は何処でも良かったわけだ。最初は中国南方のどこかの城市に籠城する設定だったが、敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面を考えているうちに、スコットランド民謡やアイルランド民謡を登場させることを思いつく。このため旧英植民地だったビルマが舞台になったと説明されている。
空想物語であり、童話として出版されたはずのこの本を読んでみると、著者が行ったこともない国が舞台となっているにもかかわらず、リアルな印象がある。物語の読後感は深い。そういうわけで、この夏の終わりに自分で撮影したミャンマーの風景をしみじみと眺めている。
10頁「ここらの森は大きなチークの木です。そこには猿が跳ねているのも見えます。。。」
15頁「赤と黄の模様のあるルーンジという腰巻のようなものをすると、どう見ても生まれながらのビルマ人でした。」
24頁「村人たちはわれわれの歌を、まるで儀式の時のようにまじめにきいていました。」
43頁「まったくの竹の柱に萱の屋根です。床が高く、風遠しよくつくってあるので、そう湿気ません。」
47頁「椰子の実が重要な食糧であることは有名です。」
57頁「ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。」
111頁「寝姿の仏像も多く、中にはいく十メートルもある仏様が上半身をなかば起こしているのもあります。」
165頁「あちらこちらに人が水牛を使って耕しています。水牛が動きだすと、白鷺が下りてきて、その背や角にとまります」
171頁「人間は一度はかならず死ぬものだし、死ぬことによってこの世の煩悩を脱れて救われるのだ、人間がそこからきた本源にかえるのだ、と信じています。」
合掌。
2016年9月8日木曜日
ミャンマー植林の旅 ゴミ捨て場のカラスたちとリサイクル図書館のこと
ミャンマー日本エコツーリズム(MJET)という日本のNGOがミャンマーの古都バガンで活動していて、バガンにある村々を選んで毎年1000本くらいの木を植えていると聞いたので、わたしも参加させていただいた。8月26日から9月4日まで9日間の旅だった。日本からは大学生3人を含む10人が参加した。現地のネイチャーラバーズというグループから6人が参加した。このNGOによる植林活動はすでに6年ほどの実績があるそうだ。これまでに植樹した数か所の村を回って若木の生育状況を確認するとともに、今年も新しい村で1000本の植樹を行った。子供たちは植林作業では苗運びを手伝った。村の男性たちは穴を掘ってくれ、女性たちは植えるのを手伝ってくれた。植樹だけでなく今後の水やりなど村を挙げて「自分たちの村の緑を守る」という意識と協力がなければボランティア活動としての植林活動は成り立たない。日本のNGOはこうした活動を企画実行すると同時に、日本で賛同者を集めて資金集めをしている。
これまでに植樹した林の状態の視察結果は場所ごとに様々だった。9割近くの木が育ってきれいな林が日陰を作っているところもあれば、白アリにやられてほぼ全滅のところもあれば、7割程度の木が生育しているところもある。首都のヤンゴンは一日に何度もスコールが降り、高温多湿だが、バガンは亜乾燥地帯であり8月末の滞在中には雨が降らなかった。今回植えた木はチークとタマリンドだった。これまで植樹された各村で木々の生育状況が異なるのは村人による乾期の水やり状況、水利当局による灌漑用水の配分状況、白アリなどの生息状況など様々な要因がからむそうだ。いくつか立派に生育している木の林をみていると宮沢賢治の童話「虔十公園林」を思い出した。
植林の旅では小学校をいくつか訪れた。村の共有の土地で木を植える場所として校庭の隣が選ばれることが多いからだ。MJETというNGOはここで学校の先生たちをサポートしながら環境の大切さを子供たちに実感させる目的で実験授業の試みも始めている。今後のMJETの活動として力を注いでいくことになるのはゴミの処分とプラスチックゴミなどのリサイクルだそうだ。バガンの村のゴミ捨て場の様子を見てみるとかなり深刻な状況にある。小さな村では焼却場の建設という方法は難しいので、適切な場所に穴を掘って埋めることになる。この対応が遅れている場所がゴミ捨て場と化してしまうと後は雪だるまのように大きくなっていく。もう一つの問題はキチンとしたゴミ捨て場とゴミ回収の仕組みがないと学校の隣などの村の共有地にゴミが散乱する状態になりやすいことだ。1.いくつかの村の連携をはかりしっかりした埋め立て地を作って運営していく。2.村ごとにゴミ収集のルールを作り、リサイクルを進めるなどしてゴミの量の減少をはかる。3.学校周辺などでゴミ拾いの運動を起こすなど環境美化のキャンペーンを進める。。。等々の対策が必要だと思われる。
これまでに植樹した林の状態の視察結果は場所ごとに様々だった。9割近くの木が育ってきれいな林が日陰を作っているところもあれば、白アリにやられてほぼ全滅のところもあれば、7割程度の木が生育しているところもある。首都のヤンゴンは一日に何度もスコールが降り、高温多湿だが、バガンは亜乾燥地帯であり8月末の滞在中には雨が降らなかった。今回植えた木はチークとタマリンドだった。これまで植樹された各村で木々の生育状況が異なるのは村人による乾期の水やり状況、水利当局による灌漑用水の配分状況、白アリなどの生息状況など様々な要因がからむそうだ。いくつか立派に生育している木の林をみていると宮沢賢治の童話「虔十公園林」を思い出した。
植林の旅では小学校をいくつか訪れた。村の共有の土地で木を植える場所として校庭の隣が選ばれることが多いからだ。MJETというNGOはここで学校の先生たちをサポートしながら環境の大切さを子供たちに実感させる目的で実験授業の試みも始めている。今後のMJETの活動として力を注いでいくことになるのはゴミの処分とプラスチックゴミなどのリサイクルだそうだ。バガンの村のゴミ捨て場の様子を見てみるとかなり深刻な状況にある。小さな村では焼却場の建設という方法は難しいので、適切な場所に穴を掘って埋めることになる。この対応が遅れている場所がゴミ捨て場と化してしまうと後は雪だるまのように大きくなっていく。もう一つの問題はキチンとしたゴミ捨て場とゴミ回収の仕組みがないと学校の隣などの村の共有地にゴミが散乱する状態になりやすいことだ。1.いくつかの村の連携をはかりしっかりした埋め立て地を作って運営していく。2.村ごとにゴミ収集のルールを作り、リサイクルを進めるなどしてゴミの量の減少をはかる。3.学校周辺などでゴミ拾いの運動を起こすなど環境美化のキャンペーンを進める。。。等々の対策が必要だと思われる。
ミリンダ図書館というプラスチックゴミのリサイクルの実例を見学する機会があった。ペットボトルを有料で回収し、それを壁の内部の建材として活用している建物だ。これは素晴らしい試みた。その昔3千ほども仏塔のあるバガンの森が消滅し、乾燥化が進んだのは仏塔を作るための煉瓦を焼くために多くの木が使われたからだそうだ。ペットボトルのリサイクルによって燃料として使われる木の消費量を減らすことは、木を生育させる植林と同様の効果を生むことになるはずだ。
ミャンマーという国で自然や街の風景というのが直接の動機で参加した植林ツアーだが、様々なことを考えさせられたのでしばらくわたしのミャンマー熱は続きそうだ。2016年8月23日火曜日
ビシュケクの料理店 青瓦台の記憶
1986年以来、2年間を除いて海外で過ごした。旅したり住んだりした国々の食卓についてノートを書いたが2007年の末から3年半暮らしたビシュケクについては、シャシリク、ラグマン、プロフなど中央アジアに共通の料理よりも、朝鮮半島料理の印象が強い。韓国のビジネスマンが退職してレストランを開いた店もあれば、スターリンの時代に満州から移住させられた朝鮮の人々の家族が開いた店もあった。朝鮮半島出身の人がたくさんいるのでコリアン料理の激戦区となる。競争を勝ち抜いている店は美味しい。焼肉と付け合せの様々な野菜、キムチ、石焼ビビンバなど定番ものはもちろんだが、それ以外に家庭料理風のメニューもある。
ビシュケクの青い看板が目印のチョンギバという店によく通った。漢字で書くと青瓦台となるそうだ。マスターが良い人でビシュケクの郊外にあるメープル・ツリーのゴルフ場で会うと、いつもにこやかにあいさつしてくれた。彼はわたしが一人でもチョンギバにランチに通い、夕方はお客さんとの会食とかスタッフと飲み会にも、この店を使ったので喜んでくれていた。この店のサバのコチジャン煮が絶品だった。アジア食品のスーパーもたくさんあるので冷凍のサバは簡単に手に入る。熱々ヒタヒタの辛みそスープにサバの切り身とよく煮えた大根がたっぷりだった。辛みそスープを白いご飯にかけるとたまらない。熱々でやけどしそうになるのでよく冷えたビールは欠かせない。ポイントは唐辛子味噌の使い方だ。癖になる味だ。
この店に限らないが、メニューにはなくて、韓国の友人たちと会食した時だけ出てくる食べ物があった。茶碗蒸しのようでもある。ケランチムという名前だった。タシケント以来の長いつきあいで、ビシュケクで再会したKYと一緒だったりすると必ず出てきた。一人分用の小さな鉄釜に入って膨らんでいるのを、熱々の内にスプーンで食べる。火傷しないように少しずつ食べる。茶碗蒸しというよりもスフレに近い。ケランは鶏卵のことでチムは蒸したものの意味だと教えてもらった。具は入っていない。シンプルで優しい味がなんとも言えない。ビシュケクを離れる頃には、頼まなくても時々出てきた。常連として認められたようで嬉しかった。もう一つある。インスタントラーメンと魚肉ソーセージが入っているチゲ(鍋料理)の一種だ。ブデチゲという名前で、漢字で書くと部隊チゲとなる。妙に懐かしい味だった。
ビシュケクの青い看板が目印のチョンギバという店によく通った。漢字で書くと青瓦台となるそうだ。マスターが良い人でビシュケクの郊外にあるメープル・ツリーのゴルフ場で会うと、いつもにこやかにあいさつしてくれた。彼はわたしが一人でもチョンギバにランチに通い、夕方はお客さんとの会食とかスタッフと飲み会にも、この店を使ったので喜んでくれていた。この店のサバのコチジャン煮が絶品だった。アジア食品のスーパーもたくさんあるので冷凍のサバは簡単に手に入る。熱々ヒタヒタの辛みそスープにサバの切り身とよく煮えた大根がたっぷりだった。辛みそスープを白いご飯にかけるとたまらない。熱々でやけどしそうになるのでよく冷えたビールは欠かせない。ポイントは唐辛子味噌の使い方だ。癖になる味だ。
この店に限らないが、メニューにはなくて、韓国の友人たちと会食した時だけ出てくる食べ物があった。茶碗蒸しのようでもある。ケランチムという名前だった。タシケント以来の長いつきあいで、ビシュケクで再会したKYと一緒だったりすると必ず出てきた。一人分用の小さな鉄釜に入って膨らんでいるのを、熱々の内にスプーンで食べる。火傷しないように少しずつ食べる。茶碗蒸しというよりもスフレに近い。ケランは鶏卵のことでチムは蒸したものの意味だと教えてもらった。具は入っていない。シンプルで優しい味がなんとも言えない。ビシュケクを離れる頃には、頼まなくても時々出てきた。常連として認められたようで嬉しかった。もう一つある。インスタントラーメンと魚肉ソーセージが入っているチゲ(鍋料理)の一種だ。ブデチゲという名前で、漢字で書くと部隊チゲとなる。妙に懐かしい味だった。
2016年8月17日水曜日
2つの民話 たらい船を漕ぐ娘と山を越えて走る娘
寿々木米若の「佐渡情話」という浪曲は見附の父が元気な頃の持ち歌だった。懐かしいのでCDが書棚にある。柏崎の漁師が荒波で難破し命を落としかける。佐渡の人に助けられて、回復を待つ日々を過ごしている内に、助けてくれた人の娘と恋に落ちる。傷が癒えた若者は必ず迎えに来ることを誓って柏崎に帰っていく。その時に娘には赤ん坊が出来ている。その後紆余曲折があり、はらはらの連続だが、最後にめでたしとなる。 この話には別にオリジナル版があってそちらは不倫も裏切りもある凄い話になっている。佐渡ヶ島の娘と海を隔てた柏崎の男の物語である点は共通している。かよわい娘がたらい舟で佐渡から柏崎まで渡ってくる怪力物語になっていることがすでに謎めいている。美空ひばりさんが歌った「ひばりの佐渡情話」はオリジナル版に近い悲恋物語をせつせつと歌うものだ。
長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。民話を読んでみるとこれも凄い話だ。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。この辺りは佐渡情話と共通している。娘は温かいつきたての餅を運んでくる。不審に思った若者が問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。娘が異常な力を持っていること気がついた若者は怖ろしくなる。ついには疎ましくなって娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷には真っ赤なつつじが咲くようになったという伝説だ。
長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。民話を読んでみるとこれも凄い話だ。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。この辺りは佐渡情話と共通している。娘は温かいつきたての餅を運んでくる。不審に思った若者が問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。娘が異常な力を持っていること気がついた若者は怖ろしくなる。ついには疎ましくなって娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷には真っ赤なつつじが咲くようになったという伝説だ。
2016年8月13日土曜日
ロケット弾と竜神の話
1999年の春から2004年の秋までウズベキスタンの首都タシケントで、国連専門機関に勤務されていたHさんとご一緒した。ジャーナリストだったご主人から、わたしが働いていた組織と現地政府との関わりについて質問されたことがあった。当時は微妙な話題が多かったので、返答に困ったので覚えている。Hさんは、その後シリアの首都ダマスカスで勤務することになった。ある時に日本に里帰りして神社にお参りすると、シリアに戻ってからも竜神様のようなイメージが脳裏から離れなかったというのがご本人の記憶だ。ダマスカスのプールで泳いでいると後ろ5mほどのところにロケット弾が着弾した。「物騒なご時世に水泳か」と思う人もいそうだが、途上国の勤務では体力と気力の維持が大切だ。物騒な国だからこそ運動したり、歩いたりできる場所は限られる。ホテルの施設くらいしかない。ロケット弾が水の中で破裂したおかげでHさんは九死に一生を得た。Hさんは龍神さまのご加護だと思ったそうだ。
龍のイメージで鮮明なのは小学校の時に学校で上映されたアニメ「龍の子太郎」だ。童話作家の松谷みよ子さんが長野県の民話をもとに再構成したこの作品は1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。山の仕事で疲れ果て、空腹で気が遠くなりそうだった太郎のお母さんは、川でとれた魚を焼いている内に仲間の分まで食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまう。残された太郎少年が、龍となった母を探し求める冒険物語だ。子供心にその魚が焚き火でジュウジュウ焼ける香ばしい匂いと、空腹に負けて一匹また一匹と食べてしまう場面が怖ろしい記憶として残っている。自分がそのような立場に立たされたとしたら誘惑に打ち勝つ自信がなかったからだ。極限状態に近い空腹を抱えながら、食べてはいけないというのも酷な話だ。
郷里である新潟県長岡市に高龍様という神社がある。上越線の宮内の辺りを流れる太田川の源流の辺りだ。見附の父が元気だった頃に一緒にお参りに行って交通安全のお守りをもらったことがある。このお守りはわたしが日本を離れて、様々な国を仕事で訪れるようになった時に必ず旅行のカバンに入っていた。コーカサスへの出張でも、中央アジアへの出張でも一緒だった。こちらの神社は「蛇」がご本尊だ。しぶとい生命力と根気強さから商売繁盛にご利益があるとされている。その昔は、長岡の厚生会館ホールなどで芸能人の公演がよく開催された。ヒット祈願などで高龍神社を訪れた有名スターも多いそうだ。父を思い出す場所になった。
龍のイメージで鮮明なのは小学校の時に学校で上映されたアニメ「龍の子太郎」だ。童話作家の松谷みよ子さんが長野県の民話をもとに再構成したこの作品は1962年に国際アンデルセン賞優良賞を受賞した。山の仕事で疲れ果て、空腹で気が遠くなりそうだった太郎のお母さんは、川でとれた魚を焼いている内に仲間の分まで食べてしまう。その罰として龍の姿に変えられてしまう。残された太郎少年が、龍となった母を探し求める冒険物語だ。子供心にその魚が焚き火でジュウジュウ焼ける香ばしい匂いと、空腹に負けて一匹また一匹と食べてしまう場面が怖ろしい記憶として残っている。自分がそのような立場に立たされたとしたら誘惑に打ち勝つ自信がなかったからだ。極限状態に近い空腹を抱えながら、食べてはいけないというのも酷な話だ。
郷里である新潟県長岡市に高龍様という神社がある。上越線の宮内の辺りを流れる太田川の源流の辺りだ。見附の父が元気だった頃に一緒にお参りに行って交通安全のお守りをもらったことがある。このお守りはわたしが日本を離れて、様々な国を仕事で訪れるようになった時に必ず旅行のカバンに入っていた。コーカサスへの出張でも、中央アジアへの出張でも一緒だった。こちらの神社は「蛇」がご本尊だ。しぶとい生命力と根気強さから商売繁盛にご利益があるとされている。その昔は、長岡の厚生会館ホールなどで芸能人の公演がよく開催された。ヒット祈願などで高龍神社を訪れた有名スターも多いそうだ。父を思い出す場所になった。
フビライ汗と馬頭琴「スーホの白い馬」の思い出
1993年から2015年の夏まで働いた職場は発足当初はロシア・東欧の国々が活動の対象国だったが、2000年代後半になってモンゴルも対象国となった。バット君は職場で知り合ったモンゴルの人たちの一人だ。この人の本名はもっと長いが誰も発音できないので短い通称を使っていた。ある日彼のオフィスの前を通りかかった。通路と個室を仕切る壁はガラスなので中の様子が見えた。デスクの壁に飾ってある丸顔で威厳のあるアジア風ポスターが気になった。「今日は」と言って彼に話かけた。フビライ汗の肖像だった。モンゴルの話になった。わたしは作家開高健のモンゴル紀行などを読んでモンゴルに興味があるという話をした。バット君がおもむろに机の引き出しを開けた。「君がモンゴルを好きなのはうれしい。このCDも聴いてくれ」。馬頭琴の演奏CDだった。気持ちの良い音だったのでそれからしばらく聴き続けた。
2014年の夏に千石にあるモンゴル料理店シリンゴルを訪れた。高校同窓のフェースブック友だちと3人だった。モンゴル料理は初めてだったが、中央アジアに駐在して以来、羊肉は大好きだ。途中で馬頭琴の演奏があった。モンゴルの草原を馬が駆けているような軽快な曲と中国風のなんとも懐かしい感じの曲だった。軽快な曲はモンゴルの物語「スーホの白い馬」の音楽だった。大切なものと出会う喜びがあり、理不尽な形で別れがくる悲しみを歌うのは世界中で共通する感情だ。その次に客席から若い人が呼ばれて馬頭琴の弾き語りとなった。太い弦が低くふるえているような声が響いてきた。お坊さんたちの読経の声を思い出した。
蛇足になるが、「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督、2007年)という山口さよこ(小夜子から改名)さんが主演した映画があるそうだ。山口さんはこの映画の完成後の2007年の夏にご逝去された。この映画いつか見てみたい。
2014年の夏に千石にあるモンゴル料理店シリンゴルを訪れた。高校同窓のフェースブック友だちと3人だった。モンゴル料理は初めてだったが、中央アジアに駐在して以来、羊肉は大好きだ。途中で馬頭琴の演奏があった。モンゴルの草原を馬が駆けているような軽快な曲と中国風のなんとも懐かしい感じの曲だった。軽快な曲はモンゴルの物語「スーホの白い馬」の音楽だった。大切なものと出会う喜びがあり、理不尽な形で別れがくる悲しみを歌うのは世界中で共通する感情だ。その次に客席から若い人が呼ばれて馬頭琴の弾き語りとなった。太い弦が低くふるえているような声が響いてきた。お坊さんたちの読経の声を思い出した。
蛇足になるが、「馬頭琴夜想曲」(木村威夫監督、2007年)という山口さよこ(小夜子から改名)さんが主演した映画があるそうだ。山口さんはこの映画の完成後の2007年の夏にご逝去された。この映画いつか見てみたい。
2016年7月16日土曜日
英国首相の就任スピーチ
6月に行われた国民投票以前のBBCの予測記事ではメイ内相はオズボーン蔵相、ジョンソン元ロンドン市長と並んで、次期首相候補の3強の1人だった。3月24日のBBC記事によるメイ女史の人物評は「英国のメルケル(=強い女性)、手堅い実務手腕、カリスマ性を欠くとの声もある」などだが、重要な閣僚ポストである内相を長く勤め、移民問題、犯罪撲滅ではタカ派の姿勢で一貫していて、保守党内の人気は常に高かった人だ。党首に選ばれての第一声では「EUとの交渉をまとめることで英のEU離脱を成功に導く」と「人々に強い決定権(コントロール)を与えることで国内の統一をはかる」を強調している。
メイ新首相が7月13日に行った就任スピーチのコピーを入手したので、帰りの電車で読んでいて感動した。格調の高い名演説だ。スピーチライターの世界を描いた原田マハ著「本日は、お日柄もよく」を思い出した。以下はスピーチの抜粋。
「もしもあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりもずっと大変な人生でしょう。あなたが仕事についているとしても、いつまで仕事があるか心配していることでしょう。あなたが持ち家に住んでいるとしても、これからのローンの返済がどうなるかを心配していることでしょう。あなたがなんとか日々の暮らしをやりくりできているとしても、生活費をまかなうことや子供たちをどうやって良い学校に入れようかということで思案していることでしょう。私はそんなあなたがたに、直接呼びかけたいのです。あなたがたが昼夜働きつめていて、ベストを尽くしていて、それでも時折うまくいかないこともあることを私は知っています。私が率いる政府は、少数の特権階級ではなく、あなたがたのことを優先することによって運営されるのです」(原文より抄訳)
揚げ足取りで恐縮だが、メイ首相の就任スピーチを紹介している大手A新聞が以下の部分を誤訳していた。
「もしあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、ウェストミンスター(ロンドン中心部)の人よりも人生はずっと大変でしょう。」(A新聞訳)
これは「than many people in Westminster realize」の箇所の訳だ。訳した人は「ロンドン中心部に住む富裕層よりも」という意味にとったようだが、この意味ならお洒落なチェルシーやハロッズのあるメイフェアのほうがピンとくる。ウェストミンスターは国会議事堂の所在地だ。ビッグベンの大時計のある建物がそびえ立つ辺りだ。このスピーチの主要メッセージは弱者目線からの新しい政治姿勢を訴えることなので「多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりも」と訳すべきところだ。
メイ新首相が7月13日に行った就任スピーチのコピーを入手したので、帰りの電車で読んでいて感動した。格調の高い名演説だ。スピーチライターの世界を描いた原田マハ著「本日は、お日柄もよく」を思い出した。以下はスピーチの抜粋。
「もしもあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりもずっと大変な人生でしょう。あなたが仕事についているとしても、いつまで仕事があるか心配していることでしょう。あなたが持ち家に住んでいるとしても、これからのローンの返済がどうなるかを心配していることでしょう。あなたがなんとか日々の暮らしをやりくりできているとしても、生活費をまかなうことや子供たちをどうやって良い学校に入れようかということで思案していることでしょう。私はそんなあなたがたに、直接呼びかけたいのです。あなたがたが昼夜働きつめていて、ベストを尽くしていて、それでも時折うまくいかないこともあることを私は知っています。私が率いる政府は、少数の特権階級ではなく、あなたがたのことを優先することによって運営されるのです」(原文より抄訳)
揚げ足取りで恐縮だが、メイ首相の就任スピーチを紹介している大手A新聞が以下の部分を誤訳していた。
「もしあなたが普通の労働者階級出身だとすれば、ウェストミンスター(ロンドン中心部)の人よりも人生はずっと大変でしょう。」(A新聞訳)
これは「than many people in Westminster realize」の箇所の訳だ。訳した人は「ロンドン中心部に住む富裕層よりも」という意味にとったようだが、この意味ならお洒落なチェルシーやハロッズのあるメイフェアのほうがピンとくる。ウェストミンスターは国会議事堂の所在地だ。ビッグベンの大時計のある建物がそびえ立つ辺りだ。このスピーチの主要メッセージは弱者目線からの新しい政治姿勢を訴えることなので「多くのウェストミンスターの政治家たちが理解しているよりも」と訳すべきところだ。
「キルギス人と日本人は兄弟」という説がある
キルギス駐在時代の友人からショロ社の記事をシェアしていただいた。この記事に登場している社長さんとは何度もご一緒する機会があったので懐かしい。東北大震災の時に被災地にミネラルウォーターを届けてくださった人だ。文中に「もし必要があれば、震災孤児をジュマドゥル氏が自身の家族で受け入れることができるという表明を日本大使へ行った。社員の中にも受け入れに名乗り出る人々が相次いだ。」と紹介されている。
2011年3月にわたしはビシュケクのTVで津波と震災と原発事故の様子を見ていた。わたしも現地の友人から「放射能で大変なことですね。日本の家族や親せきが住むところに困ったらわたしのダーチャ(畑仕事用の山荘)を使ってください」と言われて感激した記憶がある。
2011年3月にわたしはビシュケクのTVで津波と震災と原発事故の様子を見ていた。わたしも現地の友人から「放射能で大変なことですね。日本の家族や親せきが住むところに困ったらわたしのダーチャ(畑仕事用の山荘)を使ってください」と言われて感激した記憶がある。
キルギスには「日本人は魚が好きで東に移動したが、肉が好きで山に残ったキルギス人の兄弟である」というテーブルトークが好きな人がたくさんいる。古からの同胞である日本人が西欧をリードする産業技術を発展させていることに好感をもっている日本好きがキルギス共和国には多い。
2016年6月30日木曜日
英国のEU離脱をめぐる国民投票 英紙でニュースをフォローしてみた
英国がEUから離脱するか残留するかについての国民投票が6月23日に行われた。円とポンドの為替の動きが気になった。投票直前の世論調査がやや残留派有利ということで円ポンド相場は一時は160円に戻し、円ドル相場も連動した。それから数時間後に2008年のリーマンショックの時以来の急落となった。6月末の時点で138円をつけている。「金融センターとしてのロンドンと強い経済を維持するためには残留が必要」とする残留派も、「英国の主権をEUによって制限されたくない、移民問題やユーロ危機などで英国は独自路線をとりたい」とする離脱派も大先輩チャーチルを自分たちの味方だと考えていたようだ。
キャメロン首相は遊説先で「チャーチルは苦しい時にも欧州の結束を堅持した」と訴えた。離脱派のリーダー格である前ロンドン市長のボリス・ジョンソンは2014年に書いた「チャーチル・ファクター」という評伝の中で「EU懐疑派も親EU派のどちらもチャーチルを自分たちの側にいると考えている」、「チャーチルはNATOの例も米との同盟の例もあるとして、主権を制限されることについてはEU参加に限ったことではないと指摘した」、「チャーチルは欧州統合を当時のロシアなど対外的な脅威への防波堤として必要だと考えていた」と指摘していた。チャーチルが存命だったらどういう発言をすることになるのか本人に聞いてみたい。
開票が終わってみると、ロンドンなど都市部と地方の田舎部で分かれている「空気」について、中央の政治家たちはロンドン寄りの空気を読んでいたらしく、大波乱の結果となった。漁業者や国際化と関係のない仕事の人たちは経済的な理由での移民の急増やEUの無駄使いの話を聞いてEU離脱に傾くのは仕方がない。それにしてもEUの役割は多岐にわたるのでそれぞれの分野での影響を諮問委員会でまとめ、その調査結果を国会論戦にかけてから、国民投票で決めてもよさそうなものだ。こういうプロセスは抜きの大勝負となった。
新聞を読んでいて呆れたのは離脱に票を投じた人たちが「まさか勝つとは思わなかった」、「離脱の影響について、投票結果が出た後で初めて知った」などと発言したことだ。どうしてこんなことが起きるのだろうか? 昨年までロンドンに住んでいた時の週末の楽しみは自然豊かな公園散策と並んで朝のスタバか夕方のパブで新聞を読むことだった。質量共に豊かで週刊誌を読む以上に楽しい。仕事がらみや文化欄は堅い新聞で、世間話やゴシップは柔らかい新聞が充実している。「ザ・メール」という柔らかい方の新聞がある。EUから離脱という投票結果を受けて、この新聞が「離脱の影響」について特集したところ、「離脱」に投票した読者たちから「そんなこと聞いてなかった!」という投書が多数寄せられた。堅い方の新聞には両論併記してあったはずだが、読まれていなければ仕方がない。
もう一つびっくりしたのは、威勢のいい演説で聴衆をあおった離脱派の政治家たちが、勝利した途端に過激な公約を取り消そうとしたことだ。英国独立党のファラージ党首はEU離脱キャンペーンの目玉キャッチフレーズの一つだった「離脱すれば英国がEUに支払っている分担金をNHS(国民健保)に振り向ける」という公約について質問されると「そんな約束はしていない」と答え、引用した数字を訂正した。彼の投票前の発言は録画されていたので、失笑を買った。この人の場合はもともとそういうイメージなので「さもありなん」という感じだ。保守党内部でキャメロン首相に反対して、離脱運動を指揮したキャンペーン・マネージャーが「英国はEUを離脱しても移民労働者を受け入れるべきだ」とTVのインタビューに答えて反響を呼んだ。司会者は「投票前は反対のことを言っていたじゃないか」と抗議している様子が報道されている。
都市部のロンドンを中心に投票のルール変更とやり直しを請願する人が400万人を超えたそうだが、これでは無理もない。ヴァージン・グループを率いるリチャード・ブランソン氏のブログ記事を在英の友人がシェアしてくれた。離脱派が偽りの宣伝をしてきたことが明らかになったので再投票がなされるべきだという主張だ。その中にもう一つびっくりの指摘がなされている。「英独立党ファラージ党首が数か月前のインタビューで「残留派が僅差で勝った場合には再度の投票が必要だ。残留派は3分の2以上の差をつけて勝つ必要がある」と発言していた。離脱派のこの主張は今こそ、その逆のシナリオではあるが実行されるべきだ」。
英紙ガーディアンに面白い記事があった。古代ギリシャが都市国家だった時代に、アレキサンダー大王以来の軍事的天才と言われたピュロス(Pyrrhus)という王様がいた。新興のローマに攻め入り勝利したが、味方陣営も多大な犠牲を払った。それ以来、味方の被害も甚大な苦しい勝利のことを「ピュロスのような勝利」と呼ぶそうだ。同紙は国民投票の結果についての論説にこの表現を使い「ボリス前ロンドン市長はもちろん知ってるだろうけど」と皮肉っている。
英人の同僚たちとパブでビールを飲んだ時のことも思い出した。気風の良い人から始まって一人が全員の分を払うのが大人の作法だ。結果として皆で延々と全員におごり合うことになり、パブのお付き合いは長時間にわたる。この時にいつも払わないフリーライダーは「ずるい」やつなので自然に仲間から外される。相対的に景気の良かった英国はEUというパブに入って「みんなで一緒にやろうぜ」という時に、飲み代の分担の話を持ち出したことはこれまではなかった。2010年頃からユーロ危機が顕在化し、昨年あたりから議論されている難民問題が実はEU拡大の頃からすでに存在していた経済移民の問題と不可分であることに気がついた頃から、「英国の割り勘負け」状態を懸念する人々の数が急増したのだろう。もともと格差の大きい英国社会の内部でも「強くて景気の良い英国」を実感できない人たちが増えたことが、今回の投票結果の背景にある。
キャメロン首相は遊説先で「チャーチルは苦しい時にも欧州の結束を堅持した」と訴えた。離脱派のリーダー格である前ロンドン市長のボリス・ジョンソンは2014年に書いた「チャーチル・ファクター」という評伝の中で「EU懐疑派も親EU派のどちらもチャーチルを自分たちの側にいると考えている」、「チャーチルはNATOの例も米との同盟の例もあるとして、主権を制限されることについてはEU参加に限ったことではないと指摘した」、「チャーチルは欧州統合を当時のロシアなど対外的な脅威への防波堤として必要だと考えていた」と指摘していた。チャーチルが存命だったらどういう発言をすることになるのか本人に聞いてみたい。
開票が終わってみると、ロンドンなど都市部と地方の田舎部で分かれている「空気」について、中央の政治家たちはロンドン寄りの空気を読んでいたらしく、大波乱の結果となった。漁業者や国際化と関係のない仕事の人たちは経済的な理由での移民の急増やEUの無駄使いの話を聞いてEU離脱に傾くのは仕方がない。それにしてもEUの役割は多岐にわたるのでそれぞれの分野での影響を諮問委員会でまとめ、その調査結果を国会論戦にかけてから、国民投票で決めてもよさそうなものだ。こういうプロセスは抜きの大勝負となった。
新聞を読んでいて呆れたのは離脱に票を投じた人たちが「まさか勝つとは思わなかった」、「離脱の影響について、投票結果が出た後で初めて知った」などと発言したことだ。どうしてこんなことが起きるのだろうか? 昨年までロンドンに住んでいた時の週末の楽しみは自然豊かな公園散策と並んで朝のスタバか夕方のパブで新聞を読むことだった。質量共に豊かで週刊誌を読む以上に楽しい。仕事がらみや文化欄は堅い新聞で、世間話やゴシップは柔らかい新聞が充実している。「ザ・メール」という柔らかい方の新聞がある。EUから離脱という投票結果を受けて、この新聞が「離脱の影響」について特集したところ、「離脱」に投票した読者たちから「そんなこと聞いてなかった!」という投書が多数寄せられた。堅い方の新聞には両論併記してあったはずだが、読まれていなければ仕方がない。
もう一つびっくりしたのは、威勢のいい演説で聴衆をあおった離脱派の政治家たちが、勝利した途端に過激な公約を取り消そうとしたことだ。英国独立党のファラージ党首はEU離脱キャンペーンの目玉キャッチフレーズの一つだった「離脱すれば英国がEUに支払っている分担金をNHS(国民健保)に振り向ける」という公約について質問されると「そんな約束はしていない」と答え、引用した数字を訂正した。彼の投票前の発言は録画されていたので、失笑を買った。この人の場合はもともとそういうイメージなので「さもありなん」という感じだ。保守党内部でキャメロン首相に反対して、離脱運動を指揮したキャンペーン・マネージャーが「英国はEUを離脱しても移民労働者を受け入れるべきだ」とTVのインタビューに答えて反響を呼んだ。司会者は「投票前は反対のことを言っていたじゃないか」と抗議している様子が報道されている。
都市部のロンドンを中心に投票のルール変更とやり直しを請願する人が400万人を超えたそうだが、これでは無理もない。ヴァージン・グループを率いるリチャード・ブランソン氏のブログ記事を在英の友人がシェアしてくれた。離脱派が偽りの宣伝をしてきたことが明らかになったので再投票がなされるべきだという主張だ。その中にもう一つびっくりの指摘がなされている。「英独立党ファラージ党首が数か月前のインタビューで「残留派が僅差で勝った場合には再度の投票が必要だ。残留派は3分の2以上の差をつけて勝つ必要がある」と発言していた。離脱派のこの主張は今こそ、その逆のシナリオではあるが実行されるべきだ」。
英紙ガーディアンに面白い記事があった。古代ギリシャが都市国家だった時代に、アレキサンダー大王以来の軍事的天才と言われたピュロス(Pyrrhus)という王様がいた。新興のローマに攻め入り勝利したが、味方陣営も多大な犠牲を払った。それ以来、味方の被害も甚大な苦しい勝利のことを「ピュロスのような勝利」と呼ぶそうだ。同紙は国民投票の結果についての論説にこの表現を使い「ボリス前ロンドン市長はもちろん知ってるだろうけど」と皮肉っている。
英人の同僚たちとパブでビールを飲んだ時のことも思い出した。気風の良い人から始まって一人が全員の分を払うのが大人の作法だ。結果として皆で延々と全員におごり合うことになり、パブのお付き合いは長時間にわたる。この時にいつも払わないフリーライダーは「ずるい」やつなので自然に仲間から外される。相対的に景気の良かった英国はEUというパブに入って「みんなで一緒にやろうぜ」という時に、飲み代の分担の話を持ち出したことはこれまではなかった。2010年頃からユーロ危機が顕在化し、昨年あたりから議論されている難民問題が実はEU拡大の頃からすでに存在していた経済移民の問題と不可分であることに気がついた頃から、「英国の割り勘負け」状態を懸念する人々の数が急増したのだろう。もともと格差の大きい英国社会の内部でも「強くて景気の良い英国」を実感できない人たちが増えたことが、今回の投票結果の背景にある。
2016年6月20日月曜日
「サラセン人の麦」って何?
去年の暮れに渋谷で「リバプール美術館 ラファエル前派展」を観た時に「サラセン人の娘」という題名の絵があり、久々に「サラセン」という言葉に触れた。それがきっかけで調べてみると、現在ではこの言葉は使われないという説明を見つけた。「アッバース朝イスラム帝国」ならば良くて、当時の欧州人が使っていた西側の言葉は良くないということらしい。そういう理由での地名の変更は他にもたくさん例がある。インドの街の名前がたくさん変わった時もびっくりした。若い頃のバックパックの旅の思い出につながるのは古い地名のほうだから、それが消えてしまうのは寂しい。
「サラセン人の麦」も珍しいので残してほしい言葉だ。2年ほど前にフェースブックで欧州言語同時翻訳ソフトという優れものが紹介されていた。面白いのでしばらくはキュウリ、ピーマン、紫陽花などの名前の変化と分布を眺める一人遊びにはまっていたことがある。蕎麦は英語ではbuckwheatと言う。これを翻訳ソフトに入れると仏語で「サラセン」、露語で「グレチカ」などと出てきた。この時に出てきた「saracen」というローマ字を読んだ時は、日本の更科蕎麦(sarashina)を食べた人がフランスに外来語として持ち込んだのかなと思った。ググって見ると中国原産の蕎麦がサラセン帝国経由で欧州に広まったとある。
蕎麦は昔から好きだが、仕事で中央アジアに長い間住んだ時に蕎麦の美味しさを再発見している。キルギス共和国の首都ビシュケクに駐在していた時の職場にキッチンがあった。お昼になるとロシア人のおばさんが腕を振るってくれた。この時に付け合せとして頻繁に登場したのがグレチカだった。東西の食べ物の類似はとても面白いので、他にもブログで書いている。
「サラセン人の麦」も珍しいので残してほしい言葉だ。2年ほど前にフェースブックで欧州言語同時翻訳ソフトという優れものが紹介されていた。面白いのでしばらくはキュウリ、ピーマン、紫陽花などの名前の変化と分布を眺める一人遊びにはまっていたことがある。蕎麦は英語ではbuckwheatと言う。これを翻訳ソフトに入れると仏語で「サラセン」、露語で「グレチカ」などと出てきた。この時に出てきた「saracen」というローマ字を読んだ時は、日本の更科蕎麦(sarashina)を食べた人がフランスに外来語として持ち込んだのかなと思った。ググって見ると中国原産の蕎麦がサラセン帝国経由で欧州に広まったとある。
蕎麦は昔から好きだが、仕事で中央アジアに長い間住んだ時に蕎麦の美味しさを再発見している。キルギス共和国の首都ビシュケクに駐在していた時の職場にキッチンがあった。お昼になるとロシア人のおばさんが腕を振るってくれた。この時に付け合せとして頻繁に登場したのがグレチカだった。東西の食べ物の類似はとても面白いので、他にもブログで書いている。
2016年6月14日火曜日
キュウリとガーキンの違いについて
ロンドンの金融街シティの風景として登場することの多い丸みを帯びた高層ビルはガーキン(Gherkin)という愛称で呼ばれる。辞書を引くと「ピクルス用の若いキュウリ」とある。そのままキュウリと訳してはいけないのだろうか?しばらく前にフェースブックで欧州多言語翻訳ソフトという優れものが話題になったことがある。このソフトを使って英語の「キュ-カンバー(cucumber)」をチェックしてみると独語で「グルケン」、露語で「アグリエッツ」と出てくる。
「ガーキン」という言葉は東欧・旧ソ連地域でキュウリを示す言葉の中の「グル」や「グリ」の音に似ている。冬の厳しい地域で保存食であるピクルスをよく食べることは独語圏のウィーンに住んだ時の記憶とも、仕事で冬の旧ソ連圏の国々を訪れた時の記憶とも合致する。訪れた街角のレストランで前菜やサラダのメニューの中にピクルスの盛り合わせがあるかチェックすれば明らかだ。
わたしは酢漬けのトマトもキャベツも大好きだ。キュウリのピクルスも好きだが、これはこりこりしていないと美味しくない。「ふーむピクルスのキュウリはロシア系とかドイツ系の友人の家のパーティで食べたのが美味しいなあ。だからこれはキュウリとは違うんだ。ガーキンでなければ」というふうに英語圏の人たちがいつもとは違う言葉を愛用するようになっても不思議ではない。
http://www.ukdataexplorer.com/european-translator/?word=cucumber
「ガーキン」という言葉は東欧・旧ソ連地域でキュウリを示す言葉の中の「グル」や「グリ」の音に似ている。冬の厳しい地域で保存食であるピクルスをよく食べることは独語圏のウィーンに住んだ時の記憶とも、仕事で冬の旧ソ連圏の国々を訪れた時の記憶とも合致する。訪れた街角のレストランで前菜やサラダのメニューの中にピクルスの盛り合わせがあるかチェックすれば明らかだ。
わたしは酢漬けのトマトもキャベツも大好きだ。キュウリのピクルスも好きだが、これはこりこりしていないと美味しくない。「ふーむピクルスのキュウリはロシア系とかドイツ系の友人の家のパーティで食べたのが美味しいなあ。だからこれはキュウリとは違うんだ。ガーキンでなければ」というふうに英語圏の人たちがいつもとは違う言葉を愛用するようになっても不思議ではない。
http://www.ukdataexplorer.com/european-translator/?word=cucumber
2016年5月31日火曜日
「体から飛び出す」ほどの想い
先日NHKで美術番組を観ていたらすごい映像が出てきた。人物像のお腹から顔が出ている。尊者の内面にある仏性を表現したものだそうだ。人間の中にある気持ちを表現するために、体が機械の部品であるかのように表現されている。
この像をみていくつか連想したものがある。メキシコのフリーダ・カーロの絵にはマンガの吹き出しみたいにあれこれと体の内部だったり、人間の顔だったりが書き込んであったりする。若い時に交通事故で死にかけたこの画家は体が不自由になり、自分の体の中に閉じ込められたという想いが創作に向かったらしい。夫となった巨匠ディエゴ・リベラを愛し、同時に彼の女性遍歴に苦しんだことが評伝に書かれている。その苦しみをテーマにした「二人のフリーダ」という絵が印象的だ。
森進一の歌った「北の蛍」という歌がある。「もしもわたしが死んだなら、わたしのこの胸を破ってたくさんの赤い蛍が恋しい人のもとに飛んでいくだろう。。。」という凄絶なイメージの歌である。紅白歌合戦でも聞いた覚えがあるが、こういう歌をお茶の間のTVで聞くのは困ったものだ。どういう表情をすればいいのか。
式子内親王に叶わぬ恋をした歌人藤原定家の魂が、つる草になって親王の墓を覆い尽くしたという伝承がある。いろいろな人がいる。いろいろなことがある。それでも人が何かを想うことで一生懸命なのはあまり変わらない。
森進一の歌った「北の蛍」という歌がある。「もしもわたしが死んだなら、わたしのこの胸を破ってたくさんの赤い蛍が恋しい人のもとに飛んでいくだろう。。。」という凄絶なイメージの歌である。紅白歌合戦でも聞いた覚えがあるが、こういう歌をお茶の間のTVで聞くのは困ったものだ。どういう表情をすればいいのか。
式子内親王に叶わぬ恋をした歌人藤原定家の魂が、つる草になって親王の墓を覆い尽くしたという伝承がある。いろいろな人がいる。いろいろなことがある。それでも人が何かを想うことで一生懸命なのはあまり変わらない。
2016年5月29日日曜日
一枚の写真 狐の手袋
ロンドンでの単身赴任時代と現在の生活の連続性を象徴する1枚の写真がある。当時住んでいた近所の風景だが、同時に別の世界への入り口を示しているようでもある。帰国後もたくさん写真を撮り続けフェースブックに投稿しているので写真をきちんと修行すればというアドバイスしてくださる先輩諸氏もいらっしゃるが、自分としてはレンズを通して見えてくる被写体としての世界のほうにより興味をもっている。わたしが同郷のカメラマンである倉重義隆氏の写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」に強く魅かれるのもそういう理由からだと思う。画像そのものではなく、そこに映りこむ心象風景に興味があるのだと思っている。
吉田健一という英文学者の書いた「英国に就て」という本の中に、堀辰雄が「狐の手袋」という題の随筆集を出していたことが書かれている。この花はとても気に入ったので、わたしのブログのカバー写真にもなっている。近所の教会と狐の手袋が対峙している写真だ。これまで見たもっとも美しい群生地はウィンブルドンの全英オープンテニスの会場だった。吉田健一は「紫がかった色の花」と紹介しているが、いろいろな色がある。イザベラ植物園にも、ホランド・パークにも咲いていた。英国の妖精の絵にも登場する謎めいた花だ。日本では「ジギタリス」という名前で園芸種として知られている。不思議な形と色彩なのでじっと見ていて飽きない。この花については別にノートを書いている。
吉田健一という英文学者の書いた「英国に就て」という本の中に、堀辰雄が「狐の手袋」という題の随筆集を出していたことが書かれている。この花はとても気に入ったので、わたしのブログのカバー写真にもなっている。近所の教会と狐の手袋が対峙している写真だ。これまで見たもっとも美しい群生地はウィンブルドンの全英オープンテニスの会場だった。吉田健一は「紫がかった色の花」と紹介しているが、いろいろな色がある。イザベラ植物園にも、ホランド・パークにも咲いていた。英国の妖精の絵にも登場する謎めいた花だ。日本では「ジギタリス」という名前で園芸種として知られている。不思議な形と色彩なのでじっと見ていて飽きない。この花については別にノートを書いている。
2016年5月9日月曜日
イザベラ植物園のシャクナゲと井上靖の想い出
井上靖の小説を10代の頃に読んでとても好きだった。中学生の国語の教科書で読んだ「しろばんば」がしみじみとしている。高校生になってからも「夏草冬濤」、「北の海」など、この人の本を読み続けた。散文詩集も読んだ。「比良のシャクナゲ」もその頃読んだ記憶がある。同じ題名の短編小説もある。よほどこの花の情景が気に入ったのだろう。
1990年代から仕事で中央アジアやコーカサスの国を訪ねたり、駐在勤務をした時に井上靖に「再会」したのも懐かしい記憶だ。この人はシルクロードや西域を舞台にした散文詩や小説を数多く書いている。「崑崙の玉」(文春文庫)というキルギスや西域を舞台にした短編集を、それらの小説の舞台となった場所で読んでいると思うと味わい深いものがあった。
1990年代から仕事で中央アジアやコーカサスの国を訪ねたり、駐在勤務をした時に井上靖に「再会」したのも懐かしい記憶だ。この人はシルクロードや西域を舞台にした散文詩や小説を数多く書いている。「崑崙の玉」(文春文庫)というキルギスや西域を舞台にした短編集を、それらの小説の舞台となった場所で読んでいると思うと味わい深いものがあった。
12年にわたって3つの途上国での駐在勤務を続けた後で、ロンドンの本部に戻った。50代の半ばになっていた。「石楠花」と書くこの花を実際に見たのはそれからだ。ロンドンの南西部にある広大なリッチモンド公園の中にイザベラ植物園という秘密の森みたいな場所がある。4月の末から5月の間だけつつじとシャクナゲの見事な開花を観ることができる。「大きなつつじが木の上の方に咲いている」と怪訝に思ったのがシャクナゲだった。
井上靖は医者の家に生まれた。お父さんがあちこちに転勤があったことと、兄弟が多くて大変だったことなどで、祖父の後妻であった人に預けられて育ったそうだ。「しろばんば」という自伝的な小説の世界だ。このお祖母さんは井上靖をとても可愛がり、短期の予定で預かった幼子の井上靖をその後も手離さなかったそうだ。自分が寂しいこともあっただろう。井上靖としては、自分だけが親と離れて育てられたことがわだかまりになったらしい。ありそうな話だ。わたし自身にも、わたしの周辺にも思い当たることがある。その昔は「家の都合」で似たようなことは頻繁に起きたらしい。
この人の小説も、散文詩のような静けさと孤独感が特徴だ。実の両親と育ててくれた血のつながっていないお祖母さんの間に挟まれる形で子供時代を過ごした結果として、この小説家が人間関係を煩わしく思うようになったとしても不思議ではない。そうした厭世的な感覚が、井上靖の作品には色濃い。この人は、やがて中国や、モンゴルや、西域作品を書くようになり、自分の生まれた土地を離れて漂泊する魂の物語を書き続けることになる。
「比良のシャクナゲ」は大学を出て、新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の作品だ。勤め人としての鬱屈や疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出すという詩だ。そういう思いを抱いてから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。比良の山々はこの詩人の心の中に存在していたのだろう。ぽっかりと心が明るくなるような詩だ。
「比良のシャクナゲ」は大学を出て、新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の作品だ。勤め人としての鬱屈や疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出すという詩だ。そういう思いを抱いてから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。比良の山々はこの詩人の心の中に存在していたのだろう。ぽっかりと心が明るくなるような詩だ。
比良のシャクナゲ
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"
の写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のよう
な湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高
く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおお
っていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆ
られ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろ
うことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤
独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと──。
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に描く機会は私に多
くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の
群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、
その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひ
たすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下
界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なほ猥雑なくだ
らぬものに思えてくるのであった。
(「井上靖全詩集」井上靖 新潮文庫)
2016年4月30日土曜日
イザベラ植物園の思い出 ロンドンの秘密のつつじ園
小さな渓谷全体がつつじの色に染まるイザベラ植物園を訪れたのは一年前の4月の終わりだった。事情もあって長い海外生活を打ち切る準備に入った頃になってようやくロンドンの様々な会合に顔を出すようになった。たくさんの出会いがあった。この秘密の花園は新潟県人会でお会いして以来親切にしてもらった近所の友だちに教えていただいた。それからひと月ほどつつじが終わる頃までこの場所に通い続けた。
その後もここで様々な植物と出会った。野鳥や水鳥や鹿や夕陽の写真を撮るようになった。加藤節雄先生の写真クラブとの出会いもあった。帰国して鎌倉に住んで花や鳥や風景を撮影するために寺巡りをして、関連文献をチェックする今の生活の原型はこの場所にある。
ここでつつじの風景を見て以来、気持ちの中で何かが変わったのだと思う。ひと月ほど数日ごとにこの場所でつつじの群生の変化を眺めていた。こんなに美しいもののそばにいながらそれまで見たことのない自分の生活が少し変だと思った。その頃には帰国の方針を固めていたので何かそれを正当化する理由を探していたこともある。死ぬ前に見たいものはまだたくさんあるはずだという気持ちは今も変わらない。
ここでつつじの風景を見て以来、気持ちの中で何かが変わったのだと思う。ひと月ほど数日ごとにこの場所でつつじの群生の変化を眺めていた。こんなに美しいもののそばにいながらそれまで見たことのない自分の生活が少し変だと思った。その頃には帰国の方針を固めていたので何かそれを正当化する理由を探していたこともある。死ぬ前に見たいものはまだたくさんあるはずだという気持ちは今も変わらない。
2016年4月28日木曜日
倉茂義隆写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」
不思議な魅力に満ちた写真集である。今年の始めに倉茂義隆さんにお会いする機会があり、その場で欲しくなったのでサイン入り本を持っている。わたしの郷里でもある栃尾の風景が出てくる。地元のおじいちゃんやおばあちゃんのほのぼのした肖像写真が出てくる。しみじみした気持ちになりかける。突然写真の中に不思議な塑像が登場する。遊び心いっぱいの写真が登場する。懐かしさと、寂しさと、可笑しみが時間のフィルターによるものなのか奇妙なバランスを保ち、ひとつの世界となって存在している。
倉茂さんに引き合わせてくれたのは写真家の柴田秀一郎さんだ。去年の12月にある水彩画展のお祝い会で、柴田さんにお会いした。その時に郷里である栃尾巣守神社の裸押し合い祭りの話をした。年が明けて数人で観に行くことになった。同郷の映画監督である五藤利弘さんも一緒だった。祭り見学の次の日は雨になった。柴田さんが「栃尾に素晴らしい写真家の方がいる。近くのはずだ」と教えてくれたので、3人で倉茂さんのスタジオを訪問することになった。そのスタジオにあった不思議な塑像が印象的だった。写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」のカバーにも使用されている。
倉茂さんの机の上に置いてあったのがボルヘスの本だった。このアルゼンチンの作家は「夢の本」という題名の本を書いている。五藤監督は「ゆめのかよいじ」という刈谷田川の石積み風景が登場する映画を撮っている。柴田さんは鄙びた地方のバス停を撮り続けている人である。わたしのブログのタイトルは「刈谷田川の夢」である。倉茂さんから勧められた三木成夫という解剖学の先生の書いた「胎児の世界 人類の生命記憶」という本も面白い。さまざまな出会いが「夢」というテーマでつながっている。
倉茂さんに引き合わせてくれたのは写真家の柴田秀一郎さんだ。去年の12月にある水彩画展のお祝い会で、柴田さんにお会いした。その時に郷里である栃尾巣守神社の裸押し合い祭りの話をした。年が明けて数人で観に行くことになった。同郷の映画監督である五藤利弘さんも一緒だった。祭り見学の次の日は雨になった。柴田さんが「栃尾に素晴らしい写真家の方がいる。近くのはずだ」と教えてくれたので、3人で倉茂さんのスタジオを訪問することになった。そのスタジオにあった不思議な塑像が印象的だった。写真集「43年の夢 ふるさと栃尾の日々」のカバーにも使用されている。
倉茂さんの机の上に置いてあったのがボルヘスの本だった。このアルゼンチンの作家は「夢の本」という題名の本を書いている。五藤監督は「ゆめのかよいじ」という刈谷田川の石積み風景が登場する映画を撮っている。柴田さんは鄙びた地方のバス停を撮り続けている人である。わたしのブログのタイトルは「刈谷田川の夢」である。倉茂さんから勧められた三木成夫という解剖学の先生の書いた「胎児の世界 人類の生命記憶」という本も面白い。さまざまな出会いが「夢」というテーマでつながっている。
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