2016年11月7日月曜日

加藤九祚先生を偲ぶ会 2016年11月3日

ウズベキスタンで発掘作業を指導されていた加藤九祚先生が、2016年9月に酷暑のテルメズで体調を崩されご逝去された。94歳だった。加藤先生を偲ぶ会が11月3日に開かれたので、参列させていただいた。同じ年の前半に開かれた中央アジア・シンポジウムに先生が登壇された時に、壇上の先生を拝見した。小説家井上靖氏の中央アジアエッセイに加藤先生がよく登場することから、加藤先生の著書を読むようになった。私自身もウズベキスタンの首都タシケントに5年ほど駐在する機会があったこともあり、気になる人だった。タシケントでご一緒したK大使、中央ユーラシア調査会のT先生、今は東京にいるロシア語の恩師であるピヤノヴァ先生を通じて間接的には消息を何度も聞いてきたので、勝手に親しみを感じている。

市ヶ谷の地球広場のあるJICAのビルで午後2時に始まった先生を偲ぶ会は満席で立ち見の人だけでなく、部屋に入りきらなくて別室でTVで会の様子を眺める人たちでいっぱいだった。ウズベク時代の知人たちもTVでおなじみの中央アジア関係者もいらしていた。シベリア抑留時代、平凡社の編集部時代、国立民族学博物館時代、出版された書籍の関係者、外交団の皆さんのスピーチが興味深いものばかりだった。午後6時前に閉会となり、その後は小グループに分かれて打ち上げとなった。

朝鮮半島から宇部のセメント工場で働く兄を頼って本土にやってきた加藤先生は苦学しながら上智大学で独語を学ぶ。やがて陸軍に志願し任官する。これが2015年まで郷土の土を踏む気になれなかったことの理由だったことを、同年に放送されたTVのインタビュー番組で説明されている。シベリアに抑留され、独語のできるインテリ士官として作業をこなしながら露語をマスターする。この当時の隊員の方が偲ぶ会で思い出を披露した内容が印象深かった。

5年の抑留生活を終えて帰国し出版社に勤務する。この時代に机を並べたA山光三郎氏も追悼スピーチをされた。編集者として活動する中で様々な出会いがあり、また露語を活かして学者の途に進んでいかれたようだ。やがて発掘の実績が認められ国立民族学博物館に迎えられる。この時代に机を並べた方の追悼スピーチによれば、シベリア帰りで露語が堪能ということで公安当局から「スリーパー」としてのスパイ嫌疑を受けたそうだ。当局者は月に一度くらい先生を訪問して、動静を探る。加藤先生は公安氏が来ると一緒になって酒盛りをして楽しんだそうだ。やがて公安氏が一升瓶を下げて訪問するようになる。抑留についても自分は「国費で5年間シベリアに留学」した(ようなもの)と述懐されていたそうだ。

4時間に及んだ偲ぶ会では様々な方々が加藤先生との思い出を披露した。井上靖氏との親交についてもいくつかのスピーチに登場した。加藤先生は、ご自分が井上氏と酒を酌み交わしながら紹介した材料が小説「おろしや国酔夢譚」につながったことを誇らしく思っていたそうだ。90歳を超えてからも発掘のためにウズベキスタンを訪れるなど、精力的に旅をされていた。今年もミャンマーを訪れバガンの古寺群に感動されたという話を聞いて少し驚いた。わたしも今年の8月末にバガンを訪れたばかりだった。ウズベキスタン、ミャンマーと加藤先生の後を追いかけているような不思議な気持ちになった。




 

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