私が国連工業開発機関 (UNIDO)に勤務していた 時代の先輩であり、帰国後は国連UNHCR協会の理事長をされていた滝澤三郎教授が夏休みに東大、東洋英和女学院の学生たちを連れてミャンマー難民研修の旅に出かけるということだったので、引率の手伝い兼撮影班として参加させていただいた。2017年と2018年の夏休みのことだ。私はUNIDO の後で長らく勤務した欧州復興開発銀行 (EBRD) 時代に、途上国での駐在代表を三回経験したが、旧ソ連地域に限定されていたので東南アジアの経験は乏しい。学生の皆さんに質問されて答えられないのも困るので、ミャンマー本を幾冊か買い込み、読みながら旅をし、旅をしてから読むという読書の旅となった。
滝澤先生の推薦図書リストの筆頭にあったのは根本敬著「物語 ビルマの歴史」(中公新書)である。「王朝時代から現代まで」という副題がついている。ビルマの過去から現在までの通史でとても面白い。2013年に出版されたこの本は、新聞紙上で現在報じられているアウンサンスーチー女史、軍政の歴史的な経緯、諸民族の対立と難民問題等々について理解するのにとても役に立つ。「ビルマかミャンマーか」という序章が面白い。この国は英語による国名を1989年に「バーマ」から「ミャンマー」に変えている。これだけを聞くと、各地に例のある支配国側の言語での地名を元々の現地での名前に変更したような印象を受ける。これはインドの諸都市でも、中央アジアでも、アラブ世界でも起きたことだ。8世紀半ばに唐と中央アジアのタラスで決戦を行い、その後の覇権を握ったと世界史の時間に習ったサラセン帝国の名称も同じ理由で今は使われていない。この国では1948年の独立以来ビルマ語での国名は一貫して書き言葉の「ミャンマー」であり、並行して口語では「バマー」が使用されてきた。他の国の例のような外国語名と現地語名の違いの例よりも複雑だ。民主化に関わった人たちは軍の決めたことへの反感をこめて「ビルマ、バーマ、バマー」を継続して使用する人が多いそうだ。国名からして複雑な国だ。
この国が19世紀後半から続いた大英帝国の支配を経て、1948年に独立した時に「連邦国家」であったことに注意する必要がある。多数派であるビルマ族に加えて、英国統治時代の末頃からカレン族、カチン族など独立を希望していた少数民族が存在していることが現在まで尾を引いている。この本の第5章には日本軍の活動について触れる中で、謀略機関であった南機関がビルマ独立義勇軍(BIA)に深く関与し、戦後独立の父と呼ばれたアウンサン将軍を日本に招くなど、協力関係にあったことが書かれている。
この本の第10章は「軍政後のビルマ 2011年以後」と題されている。現地の様子を実際に体験し、今後の動向を探ることが滝澤先生率いる研修旅行のテーマだった。8月11日には首都ネピドーを訪れ、中央政府の当局者を訪問した。国家計画・経済開発省の高官に質問する機会があった。「難民の帰還問題を解決していくためには経済の発展が必要である。地元中小企業を育成し雇用を創出することが課題となる。インフラ整備、外資導入と並行して、地元の起業者のための金融システムを整備するためにどのような取り組みがなされていますか?」と質問した。「中小企業、特にマイクロ企業向けのファイナンスの重要性は政府も認識しているので、マイクロ・中小企業向け開発銀行を設立した。」という説明だった。根本氏の本でも「新政府は2011年8月以降、コメや豆類など一部農業産品の輸出税軽減に始まり、木材加工品輸出に対する商業税免除、自動車輸入の規制緩和、民間銀行六行による外貨交換業務の容認、マイクロファイナンス法の発布などの経済改革を行った」と紹介されている。
今回のミャンマ―の旅でお世話になったミャンマー人ガイドのリンさんが鞄から取り出して紹介してくれたのが泉谷達郎著「ビルマ独立秘史 <その名は南機関>」(徳間文庫)である。1967年に刊行されたこの本は陸軍中野学校出身の筆者による昭和15年から敗戦までの南機関の活動についての回顧録である。リンさんは1988年の民主化闘争の後で日本に語学研修生として滞在した。やがて滞在期間が切れ、不法滞在移民として本国送還された経歴を持っている。この時に難民申請を行うという選択肢もあったが、5年の日本滞在を経て自分の生まれた国に帰還することを選んだ。達意の日本語を話すリンさんは現在は日本語ガイドとして活躍している。様々な著名人のミャンマー訪問を手伝ったと話してくれた。
この回顧録は面白い。明治時代にやはり陸軍士官出身で、長らく中国大陸で謀略活動に関わった石光真清氏の回顧録の印象が共通している。この本の第八章「作戦行動に移る」の中に「インドシナ山脈を越えてゆくと国境の町メソードがある。町の西を流れるサルウィン河支流タウンジン河が国境となっている。対岸にはビルマの小さな町ミャワディがある」と書かれている。モールメン (現モーラミャイン)、チャイトウ (現チャイティーヨー) を経てラングーン (現ヤンゴン) に向かうルートは、今回の研修旅のバスで通った道である。ビルマ族と協力しながら対英工作・ビルマ独立を目指した南機関の活動は、やがて陸軍本部が英国にとって代わりビルマ軍政に向かう方針に転換した時点で暗礁に乗り上げる。前述の根本氏の著書第7章では、戦後の日本が深刻な食糧不足に苦しんだ時に、独立間もないビルマ政府が優先的に日本に米を割り当てたことについて、旧南機関のメンバーが奔走したことが記されている。南機関とビルマ側の同志たちの結びつきの強さがうかがわれる。
現地合流の参加者も加えて総勢25名の旅のロジをしきってくださった森田さんには、わたしがチャイティーヨ―の遺跡で足を滑らせて怪我をしたときを含め、とてもお世話になった。森田さんに宋芳綺著、松田薫編訳「タイ・ビルマ 国境の難民診療所」(新泉社)という本を紹介していただいた。今回の旅では8月7日の朝にバンコクに到着し、そのまま大型バスでメソートに向かった。午後に到着して最初に向かったのがこのメータオ・クリニックである。1959年生まれのドクター・シンシアの物語だ。カレン族の両親を持ち、ヤンゴンで生まれたこの先生は大学卒業後、首都ヤンゴンの大病院に勤務するがやがて自分の属するカレン民族の村で医療活動を行うことを決意する。1988年の民主化運動への政府による圧力が高まる中でシンシア先生は民主化運動や革命についてもっと知りたいという気持ちで活動家たちと行動を共にすることを決意する。この年の末に国境のタイ側にあるメソートにたどり着く。医師としての活動を始めたシンシア先生は、医療不足と貧困に苦しんでいるのは政治的な難民ばかりではなく、厳しい山岳地帯から逃れてきた経済移民たちである状況に直面する。メソートのクリニックの活動に共鳴するボランティアを募り、世界中から運営資金を集めながら医療活動を継続して現在に至っている。クリニックというよりも、困っている人々の居場所としてのコミュニティを運営しているわけだ。私たちが訪問した日はシンシア先生は不在だったが、日本から参加している3名のボランティアの女性たちから、現地の様子を案内していただき、夕食を交えて話をお聞きした。
もう一冊旅の前に見つけておいたのが吉岡逸夫著「ミャンマー難民キャンプ潜入記」(出版メディアパル・高陵社書店)である。8月8日の午前中にカレン族の難民が住んでいるメラ難民キャンプを訪れたので、2008年に刊行されたこの本は参考になった。この本で印象的なのは難民キャンプを訪問するためのタイ当局の許可を入手するのに苦労した話と、チェックポイントでもジャーナリストだと警戒されるので学生として訪問するように指示され、カメラは隠すようにと注意を受けるくだりだ。今回の私たちの旅は学生の研修旅行としてNGO経由で許可を得ている。カメラについてはお世話になったNGOの方から同じような注意をいただいた。興味深いのは吉岡氏の本の中に「もう大丈夫だ。中に入ったらこっちのもの。写真を撮っていいぞ」という案内者の記述がある点だ。
メラ難民キャンプの住人たちがなんだかゆったりした雰囲気で生活していて、外部からの訪問者に親切に対応していただいたことは予想外だった。「難民キャンプ」という語感からは緊張した、重苦しい雰囲気を予想していた。キャンプの代表である人々の話を聞くとなるほどだった。1988年の民主化運動の頃に移住してきた人はすでに30年近い歳月をこのキャンプで過ごしている。長い年月を経て、キャンプ以外の世界を知らない新しい世代も増えている。他方でミャンマーでは軍政が終わり、民主的な政権となったので難民の帰還が新しいテーマとなった。30年近い歳月の間に積み上げられた生活をどのように、帰還に向けて変えていくのか容易な話ではない。
バスの長旅の終点は古都バガンだった。バガンからヤンゴンへは今回の旅で初めて国内移動に飛行機を使った。3千ともいわれる仏塔寺院のそびえ立つ古都を訪れるのは植林ツアーに参加した去年の旅以来だ。その後に書店で見つけた射場博之著「ミャンマー もつれた時の輪」(2016年、イカロス出版)は、2011年から2013年にかけての旅の記録である。第一章はバガンから始まっている。私の昨年のバガン訪問では丘の上から夕陽を眺めた。今年の訪問では朝日に輝くバガンの眺めを期待していた。午前6時過ぎの日の出だったが、5時40分くらいに塔上からの鑑賞ポイントに到着すると、もう明るかった。空は雲に覆われていて、今一つ感激は薄かった。乾期に訪れてみたい場所だ。
2017年の研修旅の後で、竹山道雄著「「ビルマの竪琴」(新潮文庫)を読み返してみた。研修旅行の後で3日ほどヤンゴンに滞在し、2016年の植林ツアーで知り合った友人たちと再会し、ヤンゴン近郊の村々を訪れた。1人は「ビルマの竪琴」の話をしてくれた人だ。「こちらでも翻訳されているので知っています。書いた人はこの国に来た事がないのですよ」 という話を聞いた時は意外だった。具体例として指摘されたのがこの国の僧侶が楽器を演奏するというのは戒律違反である点だ。物語の中では水島上等兵は現地の僧侶に扮して斥候として活動している。戒律違反の楽器を持ち歩き、演奏していれば目立ち過ぎて困るはずという指摘だった。ヤンゴン空港から遠くないところにある日本人墓地を訪れると、徴兵されて南方戦線に駆り出され、再び祖国の地を踏むことのできなかった人々の慰霊碑があった。「ビルマの竪琴」のモデルと言われている人の墓石もあった。
新潮文庫の著者あとがきによると「ビルマの竪琴」は昭和21年から23年まで童話雑誌に連載された。その後、単行本として出版され毎日出版文化賞、文部大臣賞を受賞。旧制一高の教授として学徒を戦地に送り出した竹山氏は、鎮魂の物語を書こうとしたそうだ。敵兵と味方兵が歌を通じて交流する場面の構想が、スコットランド民謡やアイルランド民謡のイメージになり、旧英植民地だったビルマを舞台に選ぶ。著者が「子供向けに書いた童話」と書いているが、心に響く本だ。
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