2015年10月12日月曜日

ウィリアム・ブレイクの絵 テート・ブリテン

ロンドンを離れる前に気になっていて実行したことがいくつかある。テート・ブリテンに行ってウィリアム・ブレイクを観ることもその一つだった。このギャラリーでラファエル前派の部屋を観るのも大好きだが、薄暗い照明のブレイクの小部屋を訪ねることは同じ館内とは言え、ほとんど別の試みだ。

ブレイクの絵は1987年に初めてロンドンを訪れた時に初めて観た。英国の詩人であり、画家でもあるブレイクの名前を知ったのは学生時代に読んだ大江健三郎の小説やエッセイからだった。「新しい人よ、めざめよ」などに登場する。









漱石のロンドンと赤い雛罌粟

夏目漱石は1900年の夏から2年間のロンドン留学中に下宿を何度も変えている。ようやく落ち着いた5軒目の下宿と、その向かいにある漱石記念館は地下鉄ノーザン・ラインのクラパム・コモン駅の近くにある。訪ねてみると漱石に関する様々な資料が展示されていていくつもの発見があった。わたしは2度の駐在勤務でロンドンはよく知っているつもりだった。英国新潟県人会の集まりがメンバーのSさんの家で開かれた時にこのクラパム・コモン公園の横を通ったことがある。ヴィクトリア駅は長距離列車の出るターミナル駅なので何度も乗り降りしている。チェルシー橋はバタシー公園の脇にあるので何度も眺めたことがある。その公園で漱石が自転車の練習をしたこと、船旅で英国に上陸した漱石がヴィクトリア駅に降り立ったこと、チェルシーにあるカーライル博物館への途中で橋を渡っていたであろうことは知らなかった。

漱石の下宿からチェルシー橋まで歩いてみた。徒歩で20分ほどの距離だ。漱石が訪問記を書いたカーライル博物館は、西の方向に川沿いに10分ほど歩いたアルバート橋のたもとにある。チェルシーはテムズ川の北岸にあり、ロンドンの繁華街ケンジントンやナイツブリッジにも歩いて行けるお洒落な街だ。漱石は、この博物館を友人で味の素を発明した科学者として知られている池田菊苗博士と共に訪れたことを随筆に書いている。2011年の暮れに2回目のロンドン勤務を始めた時に地下鉄スローン・スクウェア駅やキングス通りに近い短期滞在用フラットに2か月ほど住んだ。そこからすぐ近くだったのに行きそびれてしまったので気になっていた博物館だった。「カーライルの家」というナショナル・トラスト作成のパンフレットによると、1795年生まれのトマス・カーライルは19世紀のヴィクトリア時代の英国を代表する歴史家・評論家である。パンフレットには文豪ディケンズやサッカレーがカーライルを讃えた言葉が引用されているが、漱石の訪問のことは記載されていない。「夏目漱石先生関係の展示物はないでしょうか?」と博物館の人に聞いてみた。案内の英婦人は笑顔になり、引出しの中から手製のクリア・ファイルを取り出して見せてくれた。同じような質問をする日本人の訪問者には慣れている様子だ。このファイルは漱石のカーライル博物館訪問に関しての日本の新聞に掲載された記事のコピーなどを一冊にまとめたものだ。後ろから「知らなかったわ」と日本語の声がした。観光客らしい二人組のご婦人だった。

この漱石関係ファイルを手に取って眺めるとカーライルと日本の関係についてまとめた論文のコピーがあった。それによると「フランス革命史」他の著作のあるカーライルは、数年がかりで仕上げた草稿を批評してもらう目的で友人に貸し出したところ、手違いで紙屑として焼かれてしまう。さすがに落胆するが、やがて気を取り直してもう一度原稿を書き上げる。不屈の意志で事を成し遂げた人として日本に紹介されて有名だったとある。このエピソードは中村正直がサミュエル・ジョンソンのオリジナルを和訳した「西国立志篇」によるものだそうだ。1870年に出版されたこの本は明治時代のベストセラーだったようで、高校の日本史の時間に習った記憶がある。ウェブサイトをチェックすると内村鑑三が1898年に書いた「後世への最大遺物」の中でも同様のエピソードが紹介されている。誰が間違えて草稿を燃やしてしまったのかについての詳細がやや異なっていることに気がついた。「イクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。」 (内村鑑三  「後世への最大遺物」 、青空文庫より抜粋)

漱石が1907年に朝日新聞に連載した小説「虞美人草」に、主人公で京都から東京へ出てきた青年が、かつて世話になって恩義のある井上老人から手紙をもらう場面がある。「拝啓 柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候(がしたてまつりそうろう)」(青空文庫より抜粋)。ここで使われている柳暗花明は「春の景色が美しい様子」という意味で、昔は時候の挨拶によく使われたようだ。南宋の詩人である陸遊の「山西の村に遊ぶ」という漢詩の一部である。ところがこの青年の心境はのどかな春の気分からは程遠い。恩人の先生の娘を妻に迎えることが正しい選択と考えつつも、古臭いしがらみに縛られるような気もして、板挟みの状態にあるからだ。東京という新しい天地で出会った自立心とプライドの強い近代的な女性にも魅かれてしまう。この状況を描いた小説に「四面楚歌」で有名な「虞美人草」という題名をつけるのは大げさな気もするが、昔はそういうものだったのだろう。

虞美人草はケシ科の一年草であるヒナゲシの別名である。麻薬の原料となるケシは越年草で背も高い。英語ではどちらもポピーとなる。漢字で雛罌粟と書く。この読み方としてはヒナゲシもコクリコもある。四面楚歌の状況に追い込まれた覇王項羽は「虞や、虞や、汝を如何せん」と思案にくれる。敗色の濃い戦の前線での話である。武人としては残りの手勢を率いて退路を切り開く仕事に女人を連れて行くわけにもいかないが、虞美人を残していけば敵軍の戦利品となるのは目に見えている。虞美人は味方の足手まといになることも、敵将の虜となることも潔しとせず、自死を選ぶ。その墓に咲いた赤い花が虞美人草と呼ばれるようになったという言い伝えがある。

漱石はわたしの郷里長岡に縁のある人だ。旧制長岡中学出身の松岡譲先輩は漱石門下の人で、その夫人は漱石先生の長女である。ヒナゲシを詠った歌人と言えば、与謝野晶子がいる。1912年の5月に、前年に渡仏していた夫鉄幹を追いかけてシベリア鉄道でウラジオストクから陸路で欧州へ向かったこの情熱の歌人は「君も雛罌粟、われも雛罌粟」と歌った。もう一人旧制長岡中学出身の先輩に詩人堀口大學がいる。この詩人は歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた。大學先輩の父であり明治時代の外交官の草分けだった堀口九萬一と鉄幹は友人だったことがこの詩人の回想録に出てくる。「虞美人草」の漱石と「君も雛罌粟」の与謝野晶子と明治時代に赤いヒナゲシの花をめぐる作品を書いた文人二人ともが長岡に縁があるのが面白い。長岡市の信濃川にかかる長生橋のたもとには与謝野夫妻の歌碑もある。この歌人が、雛罌粟の歌を詠んだ時に、愛とプライドのためなら死も怖れない虞美人を意識していたのだろうか?余談になるが昭和の時代にもヒナゲシはひたむきな愛を象徴するものとして歌われた。山上路夫作詞、森田公一作曲の「ひなげしの花」を歌ったのはアイドルだったアグネス・チャンだ。愛する者と別れても「愛の思いは胸にあふれそうよ」と訴えるひたむきさは虞美人と共通の心情だ。時代は変わっても、人の想いは変わらない。

ユーラシア大陸の反対側に位置する欧州でも、この花は失われた人々の赤い血の連想につながっている。ロンドンでも毎年の戦没者追悼の日には赤いヒナゲシの胸飾りが街にあふれる。第一次世界大戦が1914年に始まり、戦争は4年に及んだ。連合国側とドイツの休戦協定が発効したのが1918年の11月11日だ。事務所でもデパートでもこの日の11時には、戦没者をしのんで一分間の黙とうをささげるのが習わしだ。2014 年のこの日には開戦から100年を記念して、ロンドン塔の空堀の芝生が一面のセラミックの赤い花で埋め尽くされた。88万人を越えた英国の戦没者の数だけ用意されたものだ。このセラミック花は希望者に販売され、その売上げが戦没者・傷痍軍人関係のチャリティに贈られた。漱石が小説「倫敦塔」を発表したのはロンドン留学から帰国して3年経った1905年のことだ。第一次大戦が始まる以前のことである。小説に描いたロンドン塔の空堀が虞美人草で埋め尽くされるとは、漱石も想像しなかっただろう。ちょうど去年の11月の始めに長岡高校の同級生のA君がロンドンに来ていたので一緒に見学したこともあって、この光景は強く印象に残った。












2015年9月15日火曜日

ロンドン南西部 チズイックの文学と芸術の史跡探訪

その1。映画にもなった小説「眺めの良い部屋」、「ハワーズ・エンド」、「インドへの道」などを書いたE.M.フォースターはターナムグリーンを眺めるフラットの住人だった。長岡高校同窓で気鋭の経済学者である依田先生によれば、フォースターはケンブリッジ大学キングスカレッジ出身で、著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズの数年先輩だ。共に学生の秘密結社「使徒会」に所属し、後に女流作家ヴァージニア・ウルフ等を加えて、ロンドンでブルームズベリー・グループを形成し、英国の文芸活動などに大きな影響を与えたそうだ。



その2。アイルランドの詩人で、ノーベル文学賞も受賞したイェーツは「ケルト妖精物語」や「ケルト幻想物語」でも知られている。この人も若い頃にチズイックの住人だったことを知って、この人にとても興味がわいてきた。地下鉄のターナムグリーン駅の北側にある通りの家だ。わたしは南側でターナムグリーンの近くに住んでいる。この人の詩に出てくる野ネズミもナナカマドも英国の秋の風物詩です。この詩人のプロポーズを拒絶し、その後の詩人の傾向に決定的な影響を与えたと言われる運命の女性と初めて出会ったのもこの家だそうだ。
  Autumn is over the long leaves that love us, 
  And over the mice in the barley sheaves; 
  Yellow the leaves of the rowan above us, 
  And yellow the wet wild-strawberry leaves.



その3。19世紀後半に活躍し印象派の先駆者と称されるカミーユ・ピサロはフランスの人だが、一時期ロンドンにも住んでコンスターブルやターナーなど英国の風景画家の絵を研究したそうだ。この人が住んでいたのが地下鉄ターナムグリーンの駅に近いバース通りだ。この通りは地下鉄スタンフォードブルックからベッドフォード公園に向かう線路沿いの北側にある。ピサロはこの周辺の風景画を何枚か書いている。
 

その4。俳優コリン・ファースと言えばもう説明の必要がないほど知られている。「高慢と偏見」、「ブリジッド・ジョーンズの日記」などで人気が出てから様々な話題作に主演している。この人が地下鉄ターナムグリーンの駅に近い寿司の名店「真琴」のおなじみであることは知る人ぞ知る事実だ。まだ有名でなかった頃は店内でも食事をしたそうだが、今はテイクアウトだけ。今でも月一くらいで来店していると、真琴のおかみさんから教えてもらった。真琴は駅の線路の南側にある。ファース氏が住んでいる辺りは北側の豪邸地域だ。この辺りはその昔特別に開発されたところで歩くとすぐにわかるが、三階建てくらいの赤レンガの建物がベッドフォード公園を中心に広がっている。


2015年9月1日火曜日

焼き立てのチーズパンの匂い

最近ジョージアのハチャプリや、東京の「ピッツァ・マルゲリータ」のことがフェースブックで話題になった。チーズ入りのバゲット、ジョージアのハチャプリ、ピッツァ・マルガリータに共通しているのは小麦とチーズが溶けたか、焦げたかの熱々の状態を食べる旨さだ。余計なものと一緒にしないで、それだけ食べるのが美味しい。

子供の頃、学校の給食に出てきた三角形のチーズを食べても、たまに家で長方形のチーズを食べても美味しいと思ったことがなかったが、郷里長岡の大手通りにあったボン・オーハシのチーズ・パンは特別だった。一センチ四方の立方体のチーズがこんがり溶けてフランスパンの表面にあったり、白いパンの中に隠れていたりするチーズ入りバゲットはとてもお洒落で美味しい食べ物だった。

30代の終わりくらいに仕事でコーカサスの国を訪れた。ジョージアの「ハチャプリ」はワインと料理の食卓の前菜としても出てきた。「ハチャ」はチーズのことで、「プリ」はパンだ。一番美味しかったのは、散歩していた見つけたハチャプリ屋の焼き立てだ。日曜日に通りを散歩しているとお昼時になった。おばさんが大きな声で叫んでいた。「ハチャプリ、ハチャプリ!!」。何事かと思ったら、パンを窯から出したので、熱々のものを食べろと訴えているらしい。何人かの人と一緒に列に並んで食べてみた。その後、機会があるたびにジョージアン・レストランで試してみたが、そのおばさんの売っていたハチャプリ以上のものを食べたことがない。

英語圏でのピッツァ原体験ともいうべき記憶がある。1986年の5月に生まれて初めて踏んだ海外の土地がシカゴだった。英語研修先のニューヘイブンを目指す途中で、友だちのT君が入れ替わりにシカゴを離れるところだったのでお邪魔することになった。学生結婚の日系アメリカ人の奥さんはまだ引っ越しの荷造りで忙しかったので、T君と二人で近所のピザ屋に行った。なんだかきらきら輝いて見えた。当時のわたしにとってアメリカは憧れの国だった。3年がかりの努力が実ってようやくアメリカ大陸の土を踏んだのだった。ウエートレスのおねえさんたちがカッコ良かった。気を良くしたわたしは「注文してくるよ」とカウンターに向かった。そこからの展開が予想しないものだった。英語が通じないのである。しばし呆然とした。仕方がないので適当に調子を合わせてから席に戻った。この時以来、アメリカのピザはキラキラ輝いているが不可解な世界を象徴するものになった。

フェースブックでピッツァの話題に参加している人の多くが「ピッツァ・マルゲリータ」と書いているので、違和感があった。調べてみると、どうもそれが多数派のようだ。お洒落なお店の日本語・イタリア語メニューとかに精通されている人にとっての日本語表記は「ゲ」なのだろうが、英語圏でピザに目覚めたわたしにとっては「マルガリータ」しかあり得ない。これは実はどちらでもいいことだ。その音にアクセントがない場合には「ガ」でも「ゲ」でもない。軽い鼻濁音なので実はどちらでもないのが正解だ。

蛇足ながら、イタリアのピッツァとNY,シカゴ、フィラデルフィア辺りのピザと似て非なるものだという考え方がある。アメリカでイタリア移民によって広まったこの食物が当初「トマト・パイ」と呼ばれたという記録もある。現在ではトマト・パイはピザの一種と考えられているようだ。古代からユーラシアに広く分布する窯焼きフラットブレッド (インドのナンが有名だが、これは中央アジア、コーカサスでも似通ったものがある) が、イタリアのピッツァの始まりらしいが、ソースのトマトや、トッピングのペッパーは新大陸原産なのでコロンブス時代以降にイタリアに伝わっている。第二次大戦後のパックス・アメリカーナの時代になって、「イタリア風アメリカン・ピザ」 が世界に広まる以前には、世界各地で小麦粉を平らにして、チーズを乗せて焼く様々な食物が存在していたようだ。

楡の木の思い出

この写真の屋根が素敵な教会はElmwood Road(楡の木通り)という通りにある。ロンドンの加藤節雄先生の写真クラブの7月例会のテーマが「屋根」だった。いろいろ苦心したがなかなか面白い写真が撮れなかった。作品提出の締め切りも近ついてきたある日、この道を散歩しているとこの教会の屋根が目に止まった。この月の佳作に入れていただいた。

日本を離れる前の1989年頃に、ユージン・オニール作「楡の木蔭の欲望」というお芝居を東京で観たことがある。1988年にアメリカから帰国していたので、懐かしい気持ちと、どのくらい英語の芝居が理解できるかの腕試しの気持ちもあって観に行った。ほとんど理解できなかったので口惜しかったのだと思う。それからこの人の名前はずっと覚えている。いつかもう一度観直してみたいと思っている。あれから四半世紀の海外暮らしなので今度は大丈夫だと思いたい。

ユージン・オニールと言えばもう一つ想い出がある。映画「レッズ」で主役のウォーレン・ベイティとヒロインのダイアン・キートンにからむ重要な役をジャック・ニコルソンが演じた。それが劇作家ユージン・オニールの役だった。彼は「世界を揺るがした10日間」を書いたジョン・リードの友人でありながらそのパートナーであるヒロインに恋をする。ロシアに行ったまま帰ってこない恋人を待つヒロインは、寂しさと自分が何者なのかというあせりから、自分に関心を持ってくれるユージンと付き合ってしまう。忘れたいと思った恋人が戻ってきてしまうと、彼女はユージンに別れを告げる。傷つく男心を演じたジャック・二コルソンの渋さが印象的だった。

楡が出てくる歌と言えば、舟木一夫の「高校三年生」という歌がある。「赤い夕陽が校舎を染めて 楡の木蔭に弾む声」と歌っている。いい歌だ。もう一つ付け加えるとわたしが生まれた鴉ケ島という土地の最寄の駅が栃尾鉄道の楡原だった。楡には縁がある。